いや、わたしは司法試験を受けていなくて、法曹の仕事もしていないのよ。
指導教員が定年を迎えるというので、最終講義のために母校に行き、昔の知り合いにたくさん会った。
そうしたら十何年ぶりに会った昔の同級生のひとりが、そのように言うのである。
わたしは少し驚いた。法科大学院に行っても気を変えて司法試験を受けない人はもちろんいるのだが、この人はそういうタイプではなかった。
わたしは人生においてやりたい仕事があったことは一度もなく、自分の力である程度のお金を得られる大人になりたかった。そういう人間は、勉強が得意であれば弁護士か医師をめざすことが多いように思う。十八歳のわたしは自分の性格や能力を鑑み、医者になったら人を過失で殺しかねないと思って(いま考えても適切な判断である)、法学部に進んだ。
わたしの守銭奴であることとと志の低いことは当時から今まで一貫している。司法試験のあと、渉外弁護士事務所でばんばん稼ぎ、気力と体力が尽きる前に小規模な事務所にパートナー候補として入った。その過程で妹の学費と祖母の介護のために早期退職した母の生活費を補填し、自分の娘の学費もばっちりいけそうなので、ここまでの人生にたいへん満足している。わたしの幸福の八割はカネで買える。
そのようなわたしと異なり、学生時代の彼女は立派な若者だった。弁護士という仕事に理想を持っていたし、多忙なのにボランティア活動などもしていたし、上等だけれど派手ではない衣服を着て、にこやかで親切で、素敵なお友だちやかっこいい彼氏にかこまれていた。裕福な家庭で育った人らしい余裕があり、しかしそれを笠に着ない上品さをそなえていた。しょっちゅう何かに怒ってぎゃんぎゃん文句を言い、ラクなだけの格好で学校をうろうろし、節約のために体育館のシャワーを使い、眠くなったら椅子を並べて寝て、指導教員から「野良犬」と呼ばれていたわたしとは正反対である。
彼女はわたしが法科大学院を出る前に留学して、その後わたしは今まで彼女の存在を忘れていたので、弁護士にならなかったというのはなんだか意外だった。将来は彼氏と一緒に夫婦で事務所を立ち上げるようなことを言っていたのに。
わたしがそのように言うと、それはね、と彼女は言った。昔よりずいぶん化粧が薄い、とわたしは思った。
それはね、わたしがものごころつく前の話よ。
物心というのは幼児に芽生えた自意識のことだけど、わたしは第二の「ものごころ」があるように思うの。つまりね、ある種の人間には、成人してもまだ、自分というものがないの。世間で良いとされているものをできるだけハイレベルでそなえて、それを「自分」だと思って生きているの。そういう人間には第二の「ものごころ」がつくの。
わたしはぽかんとする。彼女は苦笑して、話を続ける。
わたしは二十四歳までそういう人間だった。わたしが留学したのはそれをやめたくなったからかもしれない。本当はする必要もなかったのに、とにかく一度環境を変えるべきだという声のようなものが、わたしの頭から離れなくなった。それでわたしはぜんぶを保留にして一人で外国に行った。その半年後、急に、ついたの、ものごころが。その前のことは、他人のお話のように感じる。
わたしは弁護士になりたかったのではなかった。わたしは公共心のある良い人なのではなかった。わたしは彼氏が欲しかったのではなかったし、結婚したいのでもなかった。わたしはただ、すぐれているとされているものを、手に触れるかぎり集めてかかえて、その集合を「自分」だと思っていたの。
わかるかな。
わたしはびっくりする。「評価の高い存在でいなくてはならない」と思って自分を抑圧する人はいっぱいいる。でもそれは本来の自分を抑えてがまんしているということでしょう。たとえば親に好かれたいから遊びたいのに勉強するとか、異性愛が当然視される世の中だから同性を好きになった自分に気づかないふりをするとか。抑圧する対象の「本来の自分」もないっていうのは、どういうこと?
わたしがそのように尋ねると、彼女は首をかしげる。うまく言えないんだけど、えっと、あなたは、おなかがすいたら何をどれだけ食べたいかわかるでしょ。
わたしは戸惑いながらうなずく。
自分がないっていうのはね、たとえば自分の空腹に対しても、「これをこのくらい食べたくなるべきだ」と判断して対応するような状態よ。
わたしは彼女が何を言っているかわからない。彼女は上品にほほえみ、わからないよね、と言って、それから少しバランスを欠いた、今まででいちばんきれいな笑顔をみせた。