日記_231231
振り返りとやらを毎年やっている気がするのでしたみようかな。
今年は人生で一番悲しい一年だったと思う。その悲しさと対峙するのにいっぱいっぱいで、本当に驚くほどほとんど何もできなかった。何もできないことには慣れている。何年も碌に動けていない人間なので、今さら生産性の無さなどに悲観していたら命がいくつあっても足りない。だから何もしていないこと自体には悲しんでいるわけではない。外的な悲しいことももちろんあるけれど、それ以上に変わっていってしまった人たちをうまく受け入れられない自分の未熟さに本当に嫌気が差してしまっている。頭では理解していても、やはり受け入れるのは難しい。でもこれは時間を掛けて受け入れる方法を理解していけると思っている。だから大切に思う人に対して、狭義でのエゴをぶつけないことにだけは注意して生きていこうと思う。結局のところ、どのように生きるかという姿勢でしか自分の価値(嫌いな言葉だけど)は推し量れないし、本当の意味で自分を肯定する術とはならないから。
あとは生活のパターンを病的に繰り返すことにより人格の投獄には成功している気はするけれど、それが善い人生かと言えばいざ知らず、「ただ何となくそれなりに不幸じゃなければ良い」と多くの人が"夢"みる人生の諦念退職とでもいう思考停止の楽園の入口にたどり着く。「よし、もう少しステップアップしてお金を稼ごう」「今週末にはちょっと良い旅館に泊まってリフレッシュしよう」「そろそろ婚活しないと」「子どもを作らないと」「資産運用をしないと」「子どものために政治のこと知らないと」「親孝行しないと」。そういった生活中心主義自体を別に否定する気はない。しかし"そういうことになっている"とされる全てに引っかかって一歩目から進めなくなる自分の性質を考えると、その轍を進むことはあまりに険しく感じる。またその轍を外れている人への理解が少なすぎることも善い人生の妨げとなっているとは思う。結局は個の尊重を軽んじているだけなんだけど、この言葉さえも理解されないんだろう。それも先に話した悲しいことの一つなんだけれど。いつもの癖で脱線して暗い話になってしまった。グルグルと回る思考の吐瀉物みたいな文章ですみませんね。要するに、同じ生活を繰り返すことによってストレスは回避しているものの、これで良いわけではないよねという話。やればできるじゃないかという簡潔具合だけど、簡潔な言葉で伝えられるとされるものはとてつもなく限定的だとだけ言わせてほしい。相変わらず難儀な人間である。
そういえば今年はクラシックギターをたくさん弾いた。ほぼ毎日弾いていたから少しは上達してきている感覚はあるのだけれど、奥が深すぎて若干の怖さすら感じている。あとは鍵盤も練習し始めたり。本当はピアノが一番好きな楽器なので多少は弾けるようになりたいなと思っているけれど、納得できる程度に弾けるにはどれほどかかるのやら。楽器をやるには人生は短いとすら感じてしまう。
曲はそんなに作らなかった。バンドがなくなってしまってから何に向けて作ればいいのかわからなくなってしまったから。
今年の振り返りなどと言いながら具体的な話が少ないのはひたすら抽象的な生活をしているからで、そういう時期だったとも思う。
とにかく悲しくてつらい一年だった。いまだに死んでしまえばよかったと思っている。