ダイスをころがせ日記

生きることと読むこと、考えること

池田晶子『事象そのものへ!』

この本で池田晶子(当時20代)が為そうとしたことは、何なのか。

 

一口に言えば、現実を覆うヴェールを剥ぎ取り、露頭させるということではないか。

 

スーパーに買物に行く主婦から、大蔵大臣に至るまで、「意味のわからない」紙きれや金属片を手にして途方にくれる。そのときこの「現実」は根底から崩壊するだろう。

日常の或る出来事について、私たちは「運」が良かったとか悪かったとか言いたがる。或る出会いが「偶然」であったとか「必然」であったとか言わなければ気がすまない。或る現象は、ただのその現象であり、意味も目的も何もないと思うことは人には耐え難い。なぜならそれは、自分が存在したことには意味も目的も何もないと認めるに等しいからだ。そして人は、現象を裸のままに放っておけずに解釈し、意味づける。自分を巡る物語を創る。

 

哲学という営為が元来「あらゆることを疑うこと」であるならば、彼女の手つきは正しいし、行き着くところまで行き着かなければならない。

 

生命体として生きているということーー自分の生命を維持しつつ、次の生命を再生産するという、格別意図的でもなく、実は意図以前に強いられているこの在り方が、「すばらしい」ことだということに、なぜなっているのだろう。「生命は宝である」ということに、なぜなっているのだろう。

戦場で流れ弾に当たって死のうが、道端でマンホールに落ちて死のうが、或る生命それ自身にとっては、実は同じことではないだろうか。なぜなら私たちは誰ひとりとして一度も死んだ経験がないのだから、その価値についてとやかく言うことはできないはずなのだ。犬死にだったか大往生だったかは、残った者が決めることだ。どんな形でそれが訪れようと、生命にとっての死は、ただの死であり、そこに社会や感情が意味を込める余地はない。

 

これをニヒリズムと言う人もいるかもしれない。ただ、倫理が生まれるとすれば、この地点を除いて他にない。

とりわけ、あらゆる暗黙の合意が反故になっていく現代の現実において、一度全ての「あたりまえ」を剥ぎ取ってしまいましょう、という池田晶子の戦略は有効だと思う。

 

そんな彼女にとって、根源的な問題(存在論)を繰り込んでいない思想はまやかしのようなものだったのだろう。本書は以下のような柄谷行人蓮實重彦批判から始まる。その後の日本の「思想」や「批評」の在り方を考える上でも、示唆的な論難だろう。

 

何に根ざし、何に向けられているかがわからないというほどに醒めている柄谷氏の懐疑の眼は、しかし、眼前の敵と、それと闘っているところの自分が在るということ、そのことにだけは向けられない。自分とは何か。殺されることのできる自分とは。