おもしろ勢とメタおもしろ勢
未整理なのでチャットログなどから適当に。
- 「おれたちっておもしろいよね」という話題自体によって「おもしろいおれら」を演出したいメタおもしろ勢と、実際におもしろい話だけがしたいガチおもしろ勢みたいな。
- メタおもしろ勢をオタメトリーするぜ:「家庭用ゲーム系の(FF・DMC 等)コスプレとかやっててカラオケ大好きで友達を「ツレ」と呼んで電話代が毎月 12,000 円以上でオタとしてはわりと社交的で女耐性もけっこう高いんだけど案外彼女は居なくて、常に似たようなタイプとつるんで行動する」といったかんじ。
- 面白いというキャラクターとして見られたい人と、面白い話をしたい人問題。
- ラノベ作家としてチヤホヤされたいけど、ラノベ作品を作りたいわけではない、みたいなアレですかね(たぶんラノベ作家のひとは実際にはそれほどチヤホヤされていないのだが、ファンのうち「彼らのようになりたい」側のひとからはそのように見えるのだろう的な(←実際には「見えているわけではない」のだろうが、そうであればよい的な願望というか欲望の投射という意味で(←(以下略))))。
- 相手が話を楽しんでるかどうか気にしているか。
- 「面白い人として見られたいという人」は、他人がどう思っているか意外と気にしてなさそうというか。
- その話題を他人が面白いと思っているかどうかは気にしないが、「面白い人という視線を向けてくれるかどうか」は気にしている。
- おっさんオタが若オタのひととがんばって喋ろうとした場合、チャンネルやクラスタが全然違うので相当途方に暮れるわけだが、実はそれが世代のズレとかじゃなくて、つまり「おっさんオタと若オタ」の間の溝じゃなくて、「若オタと若オタ」の間にも普遍的に生じているのかもしれないと考えると、すごい絶望的に思える。
- クラスタが違うというのは、ある種の気分や空気を前提とした「高度な」会話が成立しないということなので、最初はベタにコミュニケーションをとっていくしかないわけなんだけど、メタ前提の時代に物心をつけてしまうと、ベタなコミュニケーションが逆にむずかしくなってゆくのではないか的な。
- いやでも人間はもともとメタなコミュニケーションに降り立ったあとベタなコミュニケーションに降りてゆくのではないかという世界観。
- 「おもしろい話がしたい」勢と「楽しい空気を味わいたい」勢という問題か。
- 毛づくろい(共感型の)コミュニケーションにオタ用語が混じっていれば満足なかんじのひとだと、いちいち興味深い話題ばかりだと疲れる。
- おもしろ勢でも、知識を無茶苦茶溜め込んでるタイプも居れば、話芸で転がす岡田斗司夫氏みたいなタイプも居る。
あとは、「私よく人から「変わってるね」って言われるんですぅ〜」「あーよく居ますねそういうひと」みたいな筋合いをベタに適用すると「私よく人から「おもしろいね」って言われるんですぅ〜」「あーよく居ますねそういうひと」とか「私よく人から「濃いね」って言われるんですぅ〜」「あーよく居ますねそういうひと」みたいなかんじに置き換えられて、「変わってる」とか「おもしろい」とか「濃い」とかはその振る舞いから観測されるべきもので、自称してしまうと「そういう(無意味な)ラベル」に過ぎなくなっちゃって、実体からは乖離するよねと思うわけなんだけど、でもこの「メタおもしろ勢」の場合は、「おれっておもしろいよね」という客観的にはメタな話題を、ベタな毛繕いコミュニケーションに適用したいひとたちなわけなので、もうちょっと事情が複雑だなと思った。
このへんってお笑い芸人とかを観測していればもうちょっと見識が深まるのかもしれないなと思わなくもない。あのてのメディア上の人物を自分のコミュニケーションの規範にしているひと多そうだし(←このへんは自分が TV を見るようになってから感じていることだ)。いろんな芸人のひとの芸風の(メタベタ的な軸の)レベルを個別に観測するとかして。