ラブライブ3話に見る「時間を盗む」


ラブライブの時間圧縮的な演出が素晴らしい。


一つはシーン単位での圧縮。
例えば、3話で言えば、
OP明けから
学校玄関前(おそらく登校時)→屋上(直後?)→秋葉原(何時なのか不明)→校門前(放課後)
→ほのかの家(ちゃぶ台が片付けてある)→神社(夜)
と移動シーンなしで繋いでいきます。


ここまでの連続でのシーンのつなぎはなかなか見ません。
普通であれば、
「屋上へ探しに行くシーン」とか「秋葉原へ移動するシーン」とか
そもそも「授業を受けているシーン」とかそういうのが入るでしょう。
でも、このアニメではそういったシーンは一切排除しています。
しかも何気なく見ているとそこまで気になりません。


なぜか。
それは、それらのシーンがこのアニメが見せたいシーンではないからです。
屋上に探しに行くとか、移動シーンとか授業とか、
そういった「段取り」は要らないとはっきり宣言している演出なのだといえます。



しかし、圧縮はこういったややマクロのシーン単位のだけではありません。
細部のカット単位についても巧みに行われているのです。
この3話にはその素晴らしいサンプルがありました。


と、その前に、参考資料として、
にくきゅうファイターさんのこの記事を紹介しよう
http://nikukyu-.seesaa.net/article/9770811.html

舞HIME13話の演出についての解説だ


該当箇所を簡単に見てみよう








1→2においてベッドから押入れまでの移動を省略
3→4において竹刀をカバーから出して構えるのを省略


間にあるべき芝居を省略し、
「竹刀」への意識を途切れさせないようにしている。


にくきゅうファイターさんの記事ではこれについて
高山文彦さんの時間の省略方法」という言葉も出てきます。
これは例えば、青い花公式サイトの高山文彦さんの対談の
http://www.aoihana.tv/special/talk7/
の「桃太郎問題」なんかも絡めて考えると面白い。


こういった「時間の省略」というのは普通のアニメではあまり見ない、とも書いてあり、
意識的に行わないと出てこない演出。


また、コンテの原則として

コンテを書く場合、視聴者に見せても意味がない芝居や時間は、徹底して省くのが原則です

というのを挙げているのも、
後の「戦姫絶唱シンフォギア」を見る上では大きな参考になるでしょう。


その上で

通常、どうやって時間を盗むか知恵を絞って、セオリーを踏んだり技巧に走ったりするものですが、
水草さんのように何気なくするりと省略してくるやり方は本当にびっくりしました

と上記の演出を評している。


さて、話をラブライブに戻そう。
ラブライブにも。「何気なくするり」と省略しているカット割りがある。
3話を何回か見返していて気づいたのはこのカット割り



1では、衣装のスカートが短いことに憤慨した海未が「そういう手に出るのは卑怯です」と言って立ち上がる
2では、戸を開けながら「ならば、私は一人だけ制服で謳います」と出ていこうとする。


何気ない、やりとりではありますが、
先の例から見れば、これが「時間の省略」をやったということがお分かりいただけるでしょう。


そう、「カバンと上着を持つ」というカットが省略されているのだ。
1のカットで持っていなかったカバン等を2のカットではもっているのだから、
本来であれば、そういうカットが必要でしょう。
しかし、その「カバンと上着を持つ」という芝居は不要であるので、
何気なく省略しているのだ。

しかも、台詞は2カットで連続している。
台詞は時間的な連続性を表現しつつも、映像ではそこを省略している。
まさに映像の魔術。時間の盗み。


舞HIMEラブライブのスタジオ的な関係を考えるとなかなかに興味深い事象だ。


そして、盗んだ時間をどうしたのか。
1話から時には大きく、時には細かく盗んだ時間。
その時間は細かくは3話の




こういうカットに使われている。
「時間の省略」により、ある種の熱狂を描き、
あたかも成功が約束されているかのような描写"のみ"を見せ続けた末のこのカット。
見事な構成だ。
(成功の"幻想性"そして、努力に対するディスコミュニケーションという意味では
 花田十輝の素晴らしき仕事であることも伺える)


大きくは3話でライブをやって大失敗するという構造そのものが、
時間省略の賜物ともいえる。



この先どうするのか、ここで手を緩めてしまうのか。
1話から3話までの京極監督コンテ、そして花田十輝という男を見るに、
そんな慢心は欠片もないだろう。
このまま「時間を盗み」続けてくれるに違いない。