独占:「キリストの墓」の年代を科学的に特定

エルサレムの聖墳墓教会にある石墓、ローマ皇帝による創建時期と一致

2017.11.29
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【動画】「キリストの墓」はこうして今の聖墳墓教会となった(解説は英語です)

 イスラエル、エルサレム旧市街にある聖墳墓教会は、イエス・キリストの墓とされる場所に立つ教会だ。歴史的記録によると西暦326年、ローマ人が発見した墓を取り囲むように、教会が建てられたという。

 しかし、この教会はこれまで何度も攻撃され、火災や地震の被害を受けてきた。西暦1009年には完全に破壊され、その後再建された。そのため、ここが本当に1700年前にローマ皇帝の代理人がキリストの墓と特定した場所なのかどうか、現代の学者たちは疑問視していた。

 今回、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物が科学分析にかけられ、その結果がナショナル ジオグラフィックにもたらされた。それによって、墓はやはり古代ローマ時代にはすでにあったことが確認された。

 分析にかけられたのは、本来の墓とされている岩とそれを覆っていた大理石の板の間から採取された漆喰で、西暦345年のものと測定された。

 これまで、墓の内外から発見された建築的証拠は、最古のものでも11~12世紀の十字軍時代のものと測定され、墓が1000年以上古いことを示す証拠は何もなかった。

 新約聖書には、ナザレのイエスとして知られるユダヤ人が、エルサレムで西暦30年か33年に十字架刑に処せられたと書かれている。この墓がその人物を葬った場所であるかどうかを証明するのは考古学的に不可能だが、今回の年代測定の結果によって、墓の構造物はローマ皇帝初のキリスト教徒であったコンスタンティヌスの時代のものであることがわかった。

大理石の下の破片を除去する修復作業員。割れた大理石の間からのぞくのは、イエスのからだが安置されたと信じられている岩の表面。(PHOTOGRAPH BY ODED BALILTY, AP FOR NATIONAL GEOGRAPHIC)
大理石の下の破片を除去する修復作業員。割れた大理石の間からのぞくのは、イエスのからだが安置されたと信じられている岩の表面。(PHOTOGRAPH BY ODED BALILTY, AP FOR NATIONAL GEOGRAPHIC)

 2016年10月、墓を取り囲むようにして建設されたエディクラと呼ばれる聖堂の大々的な修復工事を行うため、墓は数世紀ぶりに開かれた。作業に当たったのは、アテネ国立技術大学の学際チームである。(参考記事:「「キリストの墓」数世紀ぶりに開けられる」

 この時、エディクラの内部で数カ所から漆喰が採取され、年代測定を行うため研究所に運ばれた。その結果は、エディクラ修復プロジェクトを率いたチーフ科学監督のアントニア・モロポーロー氏よりナショナル ジオグラフィックへ提供された。

 皇帝コンスタンティヌスの代理人は、325年頃に墓の特定のためにエルサレムへやってくると、それより200年前に建てられたローマの神殿が、イエスの埋葬場所であると告げられたという。この神殿は破壊され、その下を掘ると石灰岩の洞窟壁をくりぬいて作られた墓が姿を現した。洞窟の上部は剥ぎ取られ、墓の内部が見えるようになっており、その周囲にエディクラが建設された。

 墓の内部には石墓と呼ばれる長い棚が作られ、言い伝えによると十字架刑の後イエス・キリストの遺体はそこへ安置された。このように、石灰岩の洞窟を掘って棚やくぼみを作るという構造は、当時エルサレムに住んでいた裕福なユダヤ人の墓としては一般的だった。(参考記事:「イエス・キリストとはどんな人物だったのか?」

 石墓は大理石の板で覆われていたが、これは遅くとも1555年までには設置されたものと考えられており、巡礼者たちの話によれば、それよりも前の1300年代半ばごろには既に存在していた可能性が高い。

【ギャラリー】封印を解かれた「キリストの墓」 写真5点
【ギャラリー】封印を解かれた「キリストの墓」 写真5点
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 墓が開けられた2016年10月26日の夜、大理石の覆いを外した科学者らは、その下にあったものに目を見張った。もう一枚別の大理石の板が、元の石墓の上に直に置かれていたのだ。上にかぶせられていた大理石よりもさらに古く、表面には十字架が彫り込まれ、割れた状態で発見された。

 この古い板の年代をめぐっては、専門家の間で様々な意見が出された。十字軍時代のものという意見もあれば、それ以前の1009年に教会が破壊された時には既に存在し、破壊と同時に割れたのだろうという学者もいたが、ローマ時代と予想する者はいなかった。(参考記事:「封印を解かれた「キリストの墓」の新事実」

 ところが最新の分析結果から、板はローマ皇帝コンスタンティヌスの命により4世紀半ばごろに設置され、漆喰で固定された可能性が最も高いことが示された。聖墳墓教会の歴史を研究する人々にとっては、うれしいサプライズである。

 1999年にこの墓の歴史について独創的な研究を発表したマーティン・ビルド氏は、「測定結果は、コンスタンティヌスの時代にぴたりと一致します。大変意義のある発見です」と述べた。

 1年間に及んだエディクラの修復作業中、エディクラの壁の内部に墓の大部分が残されたままになっていることもわかった。洞窟の南側の壁から取られた漆喰は、一部が335年、別のものは1570年と特定された。前者はローマ時代に工事があったことを示すもうひとつの物証であり、後者は記録に残されている16世紀の修復工事を裏付けるものだ。墓の入り口から採取された漆喰は、11世紀のものと特定された。これも、1009年に教会が破壊された後に再建されたという記録と一致する。

 漆喰の年代測定は、光刺激蛍光線量計(OSL)を使い、2カ所の研究室でそれぞれ独自に行われた。OSLとは、石英の堆積物が最後にいつ光にさらされたかを特定する技術である。モロポーロー氏とその研究チームは、この結果を次号の考古学専門誌「Journal of Archaeological Science: Reports」に発表する。

※ナショナル ジオグラフィック12月号特集「考古学で探る本当のイエス・キリスト」では、謎に包まれた「神の子」の事実を掘り起こします。

文=Kristin Romey/訳=ルーバー荒井ハンナ

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