かつて中東には暗殺者の秘密集団があり、一帯を支配していた――これは事実とは違う伝説で、十字軍時代の年代記やビデオゲームのために脚色を加えて作り上げられたものだ。
一方で「Assassin(アサシン、暗殺者)」という言葉は、「ニザール・イスマイル」というイスラム教の一派に対して使われていた蔑称に由来するものだ。彼らはイスラム教シーア派から分派した秘密主義の集団で、短命だが政権を樹立した。このニザール派について、もう少し詳しく見ていこう。
ニザール派の起源は、西暦632年に起こったイスラム教最初の分裂にまでさかのぼる。預言者ムハンマドの後継としてだれがイマーム、すなわち指導者となるかをめぐる議論をきっかけに、イスラム教徒はシーア派とスンニ派に分かれた。その後、9世紀になると、シーア派内部で再度指導者についての意見の相違が生じ、イスマイルという名の指導者を支持する者たちは、分裂して独自のイスマイル派を形成した。 (参考記事:「2017年4月号 パキスタン 辺境の地で」)
カイロを首都とするファーティマ朝を支配していたイスマイル派の指導者が没した後の1095年、跡継ぎと目されていた息子のニザールを退けて、ニザールの弟が即位した。そこでニザールは一時的にアレクサンドリアを占拠・支配したが、早々に処刑されてしまう。ニザールを支持する者たちはペルシャに逃れ、そこで独自のイスマイル派分派を作り、独自の指導者を戴くようになった。イスマイル派の布教者ハッサン・イ・サッバーフが、ニザール派の指導者となった。
秘密主義が「退廃的な異端者」として喧伝されたこともあってか、ニザール派はシーア派からもスンニ派からも嫌われることになった。多くの敵に四方を囲まれたニザール派の人々は、生き残るための行動をとった。彼らはペルシャとシリアの山中に要塞を作り、「フィダーイー」(自己を犠牲にする者たちの意)と呼ばれる選抜戦士団を結成した。フィダーイーは、その献身的な情熱と残忍さで知られるようになる。
多勢に無勢状態にあったニザール派にとっては、従来の軍事戦術はあまり役に立たなかったようだ。そこでフィダーイーが採用したのが、特定の政敵をターゲットに攻撃するというやり方、つまり暗殺だ。潜入、殺人、拷問、死すら受け入れる訓練を受けたニザール派のフィダーイーは、実情以上の印象を与えた。聖地に到着したばかりのキリスト教徒からなる十字軍も例外ではなく、フィダーイーを恐れた。ただ、実際にはニザール派は、状況によっては十字軍と同盟を結ぶこともあったという。
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