ある壮年の男性はこう言う。「こんな状況なのに若者は遊んでいる。家におとなしくしていればよいのに」
ある若者はこう言う。「リスクの高い老人だけ我慢していればよい。悪くなるといつも僕らに押し付ける。これぐらい当たり前だ」
ある地方の住人はこう言う。「地方ではこんなに苦労して頑張っているのに。都会は頑張りが足りない」
人生を豊かにするために、2つの時間の使い方がある。
美しい時間と尊い時間だ。
美しい時間とは、自分のために自分がやりたいと思った行動になる。ただし、条件は一つあって、生涯に渡って後悔しない行動となる。本能や欲望に身を任せた行動はすぐに後悔をするので、美しい時間とはならない。かといって、将来に役立つと言いながら、自分を圧し殺して行動したものは中期的にはよかったとなるのかもしれないが、晩年後悔するかもしれない。
人の過去は変わる。人間の解釈は主観的なもので解釈が変わるからだ。事実は当然変わらない。我々は主観的な世界で生きている。
「後悔しないように」というのは、「未来でも悪い解釈にならない行動を取るように」という意味に過ぎない。欲望に身を委ねた行動は得てして短期的にしか有効性を得られない。
我々にできることは、自分で考え・行動をおこなうこと。他者との対比ではなく過去の自分に対して報いることになる。
主観的で美しく尊い時間を過ごせることを。
自由になりたいと考えているけれど、突然の自由は何をすれば良いのかわからない。檻に入っていたのに、突然、ジャングルの中に放出されても生きてはいけないのだろう。
自分の中で、何をやりたい、やろうという気持ち。
思想、行動など自由にはカテゴリがある。何を抑制されていたくないのだろうか。人間は死への逃避のため生を選択している。生きるということは、DNAに刻まれた本能的なものだ。
この生きるために、行動、時間は制限を受ける。思想はどうだろうか。宗教・イデオロギーがあまりにもミックスされてしまっている。
仕事では、功利主義のパラメータが高めに設定されている。世の中もそうだろう。シーンによって、混合比を変えていかなければならない。そうしないと、空気が読めない、あるいは、仕事ができないと言えるからだ。
朝を充実させたいと思うと、まず早起きが思いつく。しかし微睡む幸せに酔い、なかなか起きられないことは経験したことがあるだろう。
早く起きて何を行動するのか。明確になっていない。魂を揺さぶる何かを持っていないのだろう。
熱中すること、ワクワクすること。これらは早起きを可能にする。しかし、すぐには見つからないだろう。どうすればよいか。
勉学・仕事をしている上で「私よりもできる人がいる」、「私の能力では将来やっていけない」など思いをはせ、悩むことはないでしょうか。私も同様に悩むことがしばしばあります。悩みの根源を思い馳せたことがありますが、「私などいなくても世の中は回る。代替などいくらでもいる」という考えが根底にあるのではと考えています。
現代の社会は家業を継ぐ時代ではないですし、画一的な教育を与えられて育てられてきました。そのため、どの時代においても画一的ゆえに手に入れるスキルセットは違いなどあるはずがないと思います。その中でも違いを出すためには、与えられた時間を自分でコントロールして、目の前の中で…
はじめまして。でなく、お久しぶりですかね?nemuです。Webの世界に戻ってきました。