先日、友人相手に愚痴交換会(5時間)を行ったらたいへん楽しかった。友人はプライベートなことがらを気兼ねなく話せるのがありがたい。利害関係もないし、何を言ってもとりあえずは受けとめて尊重してくれる。そういう関係だからこそ友人でい続けられるというのもあるが。
Twitter(Xのことです)でつながりを維持している知人、友人もそれなりにいる。大学学部の頃の知り合いだったり、もっと前からのこともある。会ったこともない何でフォローしたのか覚えていないような人もいる。
昔はこれらのSNS上の知り合い相手でも親密さを感じられた。かつてのTwitterはリツイート機能が弱くて炎上リスクがかなり低かったためだ。フォローしている人にだけつぶやきが届く構造があった。だから安心して大量のツイートの森のなかに、ちょっとした本音やプライベートに関わるようなことも隠しておけた。もちろん若さのせいでもある。そういった、ややプライベートなことが発露されているために公開のアカウントであっても親密さが双方向に維持できたのだと思う。
しかし今のSNSはそうではない。みなさんご存知のとおり。どのSNSも公共空間であることを一定意識する必要がある。していない人はただの迂闊な人だ。どこから斧が飛んでくるかわかったものではない。
かといって、discordや鍵アカウントなどの秘密の空間を作り仲間たちとつるんでいれば親密さが維持できるのだろうか。たしかに思ったこと、身の回りに起きたことを大量に垂れながせば対面に匹敵する交流ができるとは思う。しかし、送信者も受信者もよっぽど暇な人でない限りは不可能だ。SNSは現実からなにがしかを切りとった空間であり、つぶやいてないことは存在してないのと同じ。実生活が忙しくなるとだんだんとつぶやくのが億劫になるし、結婚するとパタリとつぶやきが止まる人もいる。対して対面での交流では会話のボールを投げながら連想的に思い出したことをぽいぽい話すことができる。では音声通話はどうか。もとからある程度親しい間柄であれば関係を維持するのに有効で効率的だと思うが、どうせ時間を調整して話すのなら実際に会って喋ったほうが楽しいと思う。みなさんはコロナ禍のリモート飲み会でそれを体験したはず。遠隔地ならそれしか手段はないこともあるとは思うけども、お金に余力があり会えるならば会っておいたほうが楽しい。
だから実際に会いに行っておしゃべりをするという面倒な行為が、逆説的にも効率的な親密さ維持の手段になってきている。会いにいくのに予定を調整せねばならぬし、会ったところでうまく話せるかどうか自信もない。当たり障りのない話をしているうちに、本当に喋りたい話に到達しないかもしれない*1。そういった不安や面倒さはあるものの、それしか手段がないような気がする。面倒に思って人間関係をメンテナンスしておかないでいると人生は先細りで孤独が加速していくのではないか。SNSが発達しきった今こそ、おしゃべりが大事になってきているように思う。
そもそもうまく喋れないからTwitterをやってんだよ!というケースがあるのだった。書いてから今思いついた。やっぱり人と会って喋るのはこわい。そういうときのために複数人を集めて会うという手があるのだと思う。三人集めて二人が喋ってくれて、一人は休んでいるとかそういうの。
*1:酒の力を借りるとよい