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碁法の谷の庵にて

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2009年12月11日
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カテゴリ:その他雑考
 まあ、誰かさんを意識していることはバレバレですが、ちょうどある方からとあるアドバイスを受けたので、こういう一般向けの形式でやってみるとしましょう。





 再審で無罪判決が下り、晴れて被告人が自由の身になったとします。
 被告人には、損害の満額とは言えないながらも刑事補償金も支払われるでしょう。

 ・・・しかし、これではめでたしめでたしとはなりません。
 その先に存在するのは、「次にこのような事態を防ぐにはどうしたらよいか」と言う点から、裁判所、検察・警察、弁護人・被告人それぞれの問題点を追及して行くというプロセスです。(この文章に違和感をもたれた方は、とりあえずこの記事を最後まで読んでください)


一般的な裁判手続の中で、無実の人間を処罰から外すプロセスは、

一、検察段階での起訴判断
二、裁判所段階における有罪無罪の心証形成

があります。再審で無罪判決と言うことは、この両者がきちんと機能しなかった可能性が高いということになります。再審は非常手段で、まずは再審と言う手を使わざるを得ない状況を作り出したものを検討して行くべき所でしょう。

 警察・検察段階であれば
一、証拠集めの方法(不当な取調で虚偽の自白を誘発したなどと言うのはこれにあたる)
二、集まった証拠に対する判断

が、まず問題となるでしょう。なお、検察の実務は「起訴するなら有罪判決が取れるもののみを起訴する」と言うことで既に確立しています。

裁判所段階であれば、
一、その訴訟指揮に問題がないかどうか。(一例として重要な証拠を不必要だと言って切ってしまっていないか、争点の絞り込みを誤っていなかったか。)
二、一を前提に、証拠判断に問題がなかったか。(過度に評価すべきでない証拠を過大評価していなかったか(あるいはその逆)、裁判所が本来有しているべき知識に欠ける所がなかったか、経験則の誤りはなかったか)

ということになるでしょう。

ここで最初の違和感に戻ります。
 弁護人・被告人が?と思われるかもしれませんが、弁護人がもっときちんと仕事をしていれば、あるいは被告人にもっと良いアドバイスをしていればなどと言うことが考えられる以上、決して弁護人もこうした検討の対象外ではありません。
 冤罪事件だったのに弁護人が認めちゃったなどと言う例は、実は何件かありますし、弁護人が異議を出さなかったばっかりに裁判所に検察の言い分がそのまま行ってしまったなんてことだってあり得るのです。裁判官も、弁護人がどういうところを突っついたか、という点から、争点を発見していきます。弁護人が争点として出さなかったばっかりに、裁判所がいう事態もあり得ます。
 被告人も同様です。もちろん被告人に原因があったとしても、被告人には十分な知識がないために被告人の「責任」とする訳にはまずいかなくとも、被告人サイド側にある原因を探ることは、決して無意味ではありません。何もこれは責任を追及するためのものではないのですし。


 さて、ここで注意しなければならないことがいくつかあります。
 と言うより、今日はこの注意しなければならないことを書きたいがために記事にしたようなもんですが。
 キーワードとしては囲碁における読みの基本、「三手の読み」ですね。別に碁が強ければこの問題が分かると言う訳ではありませんが、共通と言うことで三手の読みに擬えます。

 第一に、この批判において大切なのは、「再審無罪判決が出た今だから言えること」ではないということです。
 再審などと言う方法に頼る前に無実の人間をふるい落とさなければいけない以上、検察の起訴裁量段階、あるいは裁判所の口頭弁論が終了した段階で、その時彼等が認識・考慮「することができた」事情、「考慮しなければならなかった事情」を基礎にしなければなりません。
 そういった事情を踏まえてどう判断すべきかと言うのが分からなければ、冤罪を防ぐと言うことになりえないからです。ちなみに国賠訴訟などでも、この視点から判断されるので同様です。
 「結果から逆算したら問題を発見できた」、と言うのは問題ない(現実にもよくある)ですが、「結果が悪かったから問題にしている」ような批判では全く意味がありません。次の事件では「今度はこんな結果でないから大丈夫」で片づけられてしまいます。
 こちらが攻めた時に、「そんなの当時考慮できるわけがない」と言う二手目を読んで、それをつぶす策を考えなければだめのです。

 第二に、法律をはじめ裁判所や検察が「従わなければならない枷」というのがあることを忘れてはいけません。
 これらを考慮して、「それでもなお裁判所や検察の行動は許されない」と言うように理屈を持っていかなければなりません。それらを無視して空中で批判を展開しても、「裁判所はこういう点からやるしかなかった、不幸な事故であって裁判所は悪くない」と反撃されたら、その反撃に対する反撃はなしのまま終わってしまいます。
 普通の裁判とはちょっと違いますが、冤罪なのに再審を認めなかった、と言う例で言うなら、再審は「ある時点での裁判には不合理があっても従ってもらうという要請」と、「無実の人間を処罰から解放する」と言う要請がぎちぎちに衝突しています。この衝突の上で、なぜ前者を取ってはならなかったのか、それを論証して行かなければいけません。でなければ説得力は落ちてしまうのです。
 攻めた時に、「法律的にそんなことできないんですけど」「こっちの要請だって守らなければいけないんですけど」という応戦に対処するだけの理屈を用意しなければいけないのです。

 第三に、検討した結果を、別事件を見るにあたってかなぐり捨ててはならないということです。
 ある事件では裁判所や検察をボロボロに非難して、検察をそのまま信用する裁判所は何事かと批判しておきながら、別の事件になると途端に検察の言い分をそのまんま鵜呑みにする、冤罪を防ぐための当然の行動を逆に指弾するというような、私に言わせれば醜態をさらす人は、決して少なくありません。これでは、俺様基準で批判しているか、結果が悪いから批判していると取られても仕方がありません。
 また、冤罪事件でもいくつかの冤罪防止機構は働いているはずです。このときたまたま功を奏さなかったからといって、他の件では有効に働くなどと言うのも当然にあります。
 自白は信用できないことがあると冤罪事件の際には耳にたこができるほど言われていますし、刑事訴訟法の教科書ならまず書いてあります。司法研修所でも裁判官・検察官問わず教わることですが、個別の事件になるとすべてをかなぐり捨ててしまう人は後を絶ちません。
 弁護人とその倫理の重要性、被告人の弁解を出させる必要性、被害者の証言に頼り過ぎる危険性・・・
 せっかく検討したのですから、それは次に生かさなければいけませんし、そのときたまたま生きなかった冤罪防止機構も生かさなければいけません。生きなくても言えればいいや、というのなら仕方ありませんが、そういう声ばかりが大きくなるのは生かしたいと思っている人に迷惑になりかねないのです。せっかく良質な批判だったはずなのに、低質な批判に塗りつぶされてしまうという現象は、別に珍しくも何ともないのです。
 さらに、そのときたまたま検討の俎上に上らなかった冤罪防止機構をかなぐり捨ててしまってはいけません。

 この辺りについての興味深い論考の一つが、sok氏によって示されていますので、提示しておきましょう。ある件では冤罪から被告人を守り、検察や裁判所を非難する人権派の闘士になっておきながら、あるときは証拠も見ないで検察の言い分を鵜呑みにする者、と言うのは確実にいます。むろんその基準も「常識」などという名の「俺様基準」であることは珍しくありません。
 この論考に賛成するかどうか、また冤罪検討において検討を生かせていない人に直接に当てはまるかはともかく(下の論考は制度論としての冤罪が絡んでいるので)、そういう見方もあると言うことは決して無駄ではないはずです

 山口県光市母子殺害事件とネット世論

 また、死刑積極論者で冤罪の可能性をあまり省みない人達が、痴漢やセクハラなど性犯罪においては冤罪論や加害者側の擁護(「被害者にも落ち度がある」など)をする様を、ネット上でしばしば目撃する。ここにも「(革新派が反権力との対比で重視する)冤罪への不信」や「(革新派が男社会との対比で主張する)女性学・女性論への不信」という他律性の捩れがあるのではないか、という気がしないでもない(と語尾が少しトーンダウンするのは、死刑積極論者との重なりが反中派よりは少ないように思うから)。

 確かに、痴漢事件における訴える側の勘違い、セクハラ事件におけるセクハラの定義の曖昧さなど、犯罪を構成する要件が訴える側の主観に依拠している部分はある。その点で、他の事件より冤罪を意識するのかもしれないが、性犯罪被害者の多くは女性であり、羞恥心や周囲への配慮などの理由、或いは証拠の少なさから中々表に出て来ない部分もある。女性側の主観に拠っているというだけでは、これらの事件でのみ冤罪を論じるハードルを下げる理由にはならない。

 冤罪は如何なる事件でも起こり得る。多くは、警察の初動捜査の不備や自白偏重の取調べによる。もしかしたら、事件の種類によって冤罪の多さに違いがあるのかもしれないが、場当たり的で整合性のない冤罪論では、冤罪の重大性は捉えられない。個々の事件で冤罪の可能性がない場合であっても、それ自体が冤罪を軽視する理由にはならない。


 自分で冤罪防止のための制度を批判しておいて、二手目に過去に自分が行ってきた批判が鏡のごとく帰ってくるのでは笑えません。あるいは、返されても、三手目にどう違うと言うのを返す準備をしておくのが必要です。




 最後に、冤罪事件なら、まあ大体検察とか裁判官におよそ問題がない、ということはほとんどない(と個人的には思う)し、検察も裁判所も反論の難しい立場にいるので、低質な批判をしても、結果オーライと言うことになりがちです。
 ・・・しかし、今日に至るまで、一昔前のような冤罪は根絶されていないこと、さらに多くの国民は少なくとも建前において冤罪を認めることはありません。
 それを考えれば、こうした問題はちょっとやそっとの批判ごときで取り除ける問題ではないのです。それに対処するには、起こってしまった事件の教訓を一般の事件に生かすことであり、検察や裁判所を指弾する「ばかり」では意味がありません。検討した結果、誰の落ち度でもない、例え犯人が逃げたくても犯罪には刑罰で臨むという制度がある故の、不幸な事故ということだって「あり得ないことではありません」し、だから刑事補償と言う制度もあります。(これを認められないのはお子様だと思います)
 
 公権力だって、ノーガードで立っていてはくれません。反撃をしてくるかもしれません。その時に一部の者が反撃でなす術なく倒れれば、批判の質が誤認され、せっかくの良質な批判もぶち壊しになりかねないのです。
 三手の読み、公権力からの二手目を意識することで、批判の質も実り多いものになるでしょう。





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最終更新日  2009年12月11日 19時47分56秒
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