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カテゴリ:種差別・アニマルライツについて
2009年11月3日付けの読売新聞の「動物と生きる5」からの続きです。
>「銃から5センチの棒が出て脳を挫滅したから、 >牛はもう意識がなくて痛くないの」 と小学6年生の児童達に説明するのは、三重県松坂市の 県松坂食肉衛生検査所主任検査員で獣医師の山本友美さん(42)。 さらに説明が続きます。 >次は、いかに早く血を抜くかが大切。 >こうした作業を一つ一つきっちりしないといいお肉にならない。 >せっかく牛からもらった命を食べるために、 >みんな一生懸命に作業しています」 南茶手にも説明させて下さい。 >「銃から5センチの棒が出て脳を挫滅したから、 >牛はもう意識がなくて痛くないの」 山本さん、その、銃で撃たれる場所へ連れて来られるまで、 それから銃を目の前にして、撃たれるその瞬間までの間、 牛たちがいくばくの恐怖を味わっているか、 ということに思いを馳せたことはありませんか? >せっかく牛からもらった命を食べるために、 この表現はおかしいのではないでしょう? 「命」は食べられないんです。 命には形がないから。物質ではないから。 だから食べられない。 >せっかく牛からもらった命を食べるために、 と言う表現をすると、いかにも、感謝して食べれば食べていいのだ、 というふうに、食肉を正当化することができます。 しかし、牛からもらった命を食べるのではありません。 牛の命を奪った後にその肉を食べるのです。 そこのところを正確に表現してもらいたいものです。 いいですか?屠殺とは、食肉とは、動物の命を奪っていることなのです。 これが大前提なのです。 それを、 >せっかく牛からもらった命を食べるために、 と、安易な、ごまかしの言葉で食肉を正当化してはいませんか? 「あなたは人間じゃないから、こうして殺されて食べられても仕方ないのよ」 これが種差別なのです。 そこのところに気づく小学生が出てくることを望みます。 アメリカでは自らベジタリアンになる子供が少なくないといいます。 子供の200人に1人はベジタリアンだというデータもあるようです。 大人にベジタリアンがほとんどいない日本では、そうなることは無理でしょう。 (つづくかもしれない) 動物の権利 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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