富山県富山市に生まれ、大学は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督などを輩出した大阪芸術大学へ。その後、京都でのライター生活を経て上京した、作家の山内マリコさん。『わたしの好きな街』では、かつて住んでいた「吉祥寺」への酸いと甘い思いを込めたエッセイを寄稿していただきました。山内さんの描く小説では、地方や女性、結婚、そして東京というテーマが描かれ、それは彼女が過ごした時間や場所、出来事と密接に結びついています。ということは、山内マリコのルーツや歩いてきた道のりを紐解くことで、小説への想像力はさらに深まるはず。富山県発、東京行きの物語がいま、始まります。
「独り立ち」や「上京」に心を揺さぶられていた少女時代
―― 昨年、山内さんの故郷である富山市に初めて行ったのですが、想像していた以上に都会で驚きました。
山内マリコ(以下、山内) ありがとう。それ、富山市が喜びます(笑)。県庁所在地なのでほどほどに都会ですよね。特に駅前は、1990年前後の再開発で戦後の匂いが一掃され、ショッピング・ビルがいくつもできました。私、田舎の子ではあるんですけど、友だちとサンリオショップやサイゼリヤに入り浸ったりして、小学生のころから資本主義にまみれてたんです。
高校生になると放課後、毎日のように街に遊びに行ってました。当時から郊外化は進んでいたけど、まだ中心市街地にもいろんなお店があって、友だちとあれこれ見て歩くだけで楽しかったですね。なので、「この街が嫌だ!」とは思ってなかったし、富山のことはずっと好きでした。
―― 「CREA」のインタビューでは地元が退屈で息苦しい、ということをおっしゃっていて、作品でも「地方(都市)の閉塞感」がテーマのものを書かれていますよね。お話を聞く限り、息苦しさや閉塞感のようなものは感じませんでしたが、実際には「そこに満足しきれていない自分」がいたのでしょうか。
山内 当時は地元に対する不満より、外の世界に旅立つ物語への憧れのほうが強かったかな。スタジオジブリの『魔女の宅急便』の、14歳になったら独り立ちする! みたいな話が大好きでした。同じジブリ作品で『海がきこえる』という、氷室冴子さん原作のアニメがあって、これも繰り返し観てましたね。主人公が高知から東京へ進学する上京ものなんですが、私はなぜかずっと、自立する話や上京というテーマに心を揺さぶられていました。当時は地元しか知らないから他と相対化できないし、街に対する否定的な気持ちはあんまりなかったかな。
ただ、モノへの枯渇感はたしかにありました。中学あたりからサブカル趣味にどっぷり浸かっていたのですが、地元には好奇心を満たしてくれるような店がなくて。ネットがない時代は、モノは店を仲介しないと手に入れられない。店がすべてなんです。なので本屋さんやレンタルビデオ屋さんの品揃えには、早くから不満を募らせてましたね。雑誌に載ってる世界と地元の乖離をひしひし感じながら、自転車を飛ばしていろんなレンタルビデオ屋をはしごしたり、親にせがんで車を出してもらったり。
――その地元・富山から離れて、関西にある大阪芸術大学の映像学科に進学されます。大学の卒業生インタビューでは『新世紀エヴァンゲリオン』の監督・庵野秀明さんの母校だったことが決め手に(あとは富山から行きやすいから)とおっしゃっていますが、本当に決め手はエヴァだったんですか。
山内 推薦入試でスルッと受かったのがもちろん最大の理由ですが(笑)、その次くらいにはありますね。ちょうど中高生のころにエヴァの放送が始まって、碇シンジや綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーは同じ年(という設定)だから、思い入れも強くて。庵野秀明さんはカルチャーヒーローでした。
―― このあいだ、『大阪芸大 破壊者は西からやってくる』(東京書籍)の、山内さんのページを読んでいたら「卒業論文がフランソワ・トリュフォー」と書いてあって、「この人は本当に卒業したんだ!」と改めて思いました。しかも4年でですよね。僕は映像学科の後輩にあたるのですが、すぐにドロップアウトしてしまって……。
山内 映像なんだ!? あの学校は中退しないと出世できないジンクスがあるんだよね。
―― しかし中退したからといって出世できないという話も在学中、よく聞きました……(苦笑)
山内 普通に4年で卒業したのは、私がそれだけやる気のない、受け身のダメ学生だったからだよ。辞めるってかなりパワーがいるじゃないですか、意思と行動力が。何かを変えようとするパワーすらない、本当にひどい大学生でした……。
―― 映像制作は集団でやるから嫌だったとのことですが、すごく分かる! と思いました。つくることと観ることはまったく違いますよね。
山内 集団行動もそうだし、具体的に映画づくりのどの役割をやりたいのか、何が自分に向いているのかを、考えられてなかったですよね。当然のように「監督かなー」とか思ってて。でも、とてもじゃないけど「あたし監督やるからみんなついてきて!」なんて言えるような人間性ではない。今から思うとジェンダーバイアスもあったかも。女子が男子を押しのけて前に出られるような空気ではなかったし、かといって人の現場を手伝う優しさもなく(笑)。
若い男女が一緒に何かをつくるとなると、やっぱりちょっと合コンのノリの延長みたいな雰囲気があるわけです。私はそれが気持ち悪くて……。前期授業が終わるころには、映画監督の夢は完全になかったことになってました。まあでもその代わり、一人で引きこもるのが大好きで、文章を書くのも得意なんだと気付けたのは、大きな収穫だったと思います。
―― ちなみに当時、どこに住まれていましたか?
山内 大学の超近く。入学前に、大学推薦の下宿先一覧みたいなものが送られてくるじゃないですか? 下見に行けない田舎者はそれに従うしかないから、載ってる中からできるだけ新しくてきれいそうなところを選んだのですが……田舎キャンパスのまわりって、びっくりするくらい何もない。でも前述のとおり、引越す気力もなく(笑)、結局4年間そこに居続けることに。
―― 緑はたくさんありましたね。でも頑張って電車に乗れば天王寺や、梅田まで行けるじゃないですか。
山内 ひどい出不精だったからなぁ。新作映画が観たくて、何とか梅田の映画館には行ってたけど、毎回「本当にたどり着けるのだろうか」と、そこそこ緊張してました。何度行ってもちょっと迷うんですよ。それに遅くなるとバスがなくなって帰れなくなる。スリルを感じながら映画を観てましたね。
「小説家になりたい」自分を認められない自意識
――大学時代、これは忘れることがないだろうというくらいの、印象的な思い出はありますか?
山内 一回生のときはわけもわからず恋愛に振り回されてたけど、二回生になって親友ができて、それからは彼女といちゃつく喜び一色でした。その子に出会えただけで、大阪芸大に入ってよかったと思ってます。
映画監督のウェス・アンダーソンは大学時代にオーウェン・ウィルソンと出会って、そのとき二人の間でつくり上げた価値観で、映画を撮っている、というようなことを言っているのですが、私にとって彼女もそんな存在。ただ気が合うだけじゃなく、膨大な時間を共有して、たくさんおしゃべりしたことで二人一緒に、自分自身をつくり上げていった。その出会いがなかったら私は今のような人間にはなってなかったと思うので、彼女と出会ったことがすべてですね。
――当時はまだ小説は書いていなかったんですよね。昔から作家になりたいという夢を持っていて、文章を書くことも好きということに気付いてなお、執筆されなかったのはなぜでしょう。
山内 自己表現って恥ずかしいんですよ。自分の恥部に向き合うことそのものだから。小説を書きたい表現欲求や、小説家になりたい野心、自分がそんなものを持っているのを認めることがまず恥ずかしい。かなり深刻な自意識過剰なんだけど、でも自己表現するにはそのくらいのデリカシーがあって然るべきだとも思います。言い訳ですが(笑)。
――でも芸術大学って何をしても許される環境じゃないですか。そういう学部もありますし。
山内 まあ、私だけスタートラインにも立ててなかったってことかな(笑)。芸大って表現欲求という強めのエゴを持った若者の集まりだから、摩擦熱が高くてしんどいんですよ。心身ともにやわだった私は、息してるだけでへとへとでした。よーし小説書こうと机に向かっても、自分があまりにも平凡で、自分の中に語るべきものがなさすぎて、落ち込む。卒業までその繰り返しでした。
―― 大学卒業後は、京都でライターをされていますよね。たくさんの人と会って話を聞く、という経験は、創作活動に活きていますか?
山内 いやぁ、取材で人から話を聞き出すのは、昔も今もすごく下手です。ただ私の場合、ライターの仕事のおかげで、自分はやっぱり小説を書きたいんだと気付けたのが大きかった。無記名原稿だと、文章で自分の個性を出すことはもちろんできない、それが思った以上につらくて、自覚せずにはいられなかったわけです。恥ずかしいけど、自分の夢は間違いなく小説家なんだってことに。それが25歳のときですね。
――聞くところによると、京都時代は珍しい場所に住んでいたとか。
山内 土地勘がなさすぎて祇園に住んでしまって(笑)。花見小路通から脇に入ったところにある、こぎれいなんだけど怪しげなマンションに住んでました。私も、うちの猫も、ここはなんだか合わなくて、2年で引越すことに。
次に住んだアパートは、いい具合に古くて間取りも変で、好きだったのですが、場所を言うと京都の人から「そこに住むの?」と言われるくらい珍しいエリアで……。京都は光と影のコントラストが強くて、タブーもいろいろあり、余所者が住むのは本当に難しいんだなと痛感しましたね。
中央線沿線・サブカル・みうらじゅん
――その後、上京して本格的に小説を執筆されるわけですが、関西でも執筆活動はできたかもしれない。どうして上京されたんですか?
山内 直接の理由は、友だちに背中を押されたというか、言い当てられたことかな。いろいろあってかなり落ち込んでいたとき、「マリコは東京に行きな」って言ってくれて。私がいい加減、京都に倦んできていて、本心では東京に行きたがってることがバレてたんでしょうね。
京都のど真ん中に3年半ほど住んで、知らない土地で暮らすことに自信がついてきてたタイミングだったんです。大学卒業の時点では東京なんて怖すぎたけど、今なら大丈夫と思えた。
――念願の上京でしたけれど、東京に来てみて率直にどう思いましたか?
山内 最高(笑)! これまで住んだどの街より、フリーダムな風が吹いてる感じがしました。ここだけは、誰がどんな理由で来てもいいんだと。東京生まれ東京育ちの人もたくさんいるけど、多くの人が地方から出てきている前提。居心地はとてもいいです。
東京以外の街は、私みたいに意味もなく夢を追いかけてきましたという人には、どうしても排他的な空気があります。東京は人口の流動性が高くて匿名性が高い。街を歩いていて知り合いに合う可能性は、限りなくゼロに近いですよね。誰にも見られていない開放感が、自分に合ってると思いました。ビビってないで、早く来ればよかった。
――『わたしの好きな街』(ポプラ社)に「思うところあって吉祥寺のはずれの築三十年の木造アパートに引越した」とありますが、住む土地と家を決めたポイントはなんでしたか?
山内 みうらじゅんさんが何かのインタビューで言ってたんです、「サブカル系は中央線に住むもんだ」って。「へぇ〜そうなんだ〜」と思い込んで、完全にそれを鵜呑みにして探しました(笑)。中央線沿線の不動産屋さんをまわったのですが、猫OKとなると、おしゃれなマンションとはいかず。私もだんだん古い物件のほうが落ち着くようになってたので、大喜びでボロアパートを借りました。
――ご自身はサブカル、一方で吉祥寺は「住みたい街ナンバーワン」とメインストリームに位置しているわけですよね。この矛盾に対する葛藤はありましたか?
山内 ないです(笑)。それは私じゃなくて、吉祥寺が抱えてる矛盾だ(笑)。
人は変わっていく生き物だから
――ここからは、作品についてお話を伺えればと思います。「ここは退屈迎えに来て」でデビューされてから、「地方」「地元」「女性」を描く作家としてのイメージが確立されていきます。ご自身の中で、テーマが定まっていった経緯を教えてください。
山内 なんていい質問だ〜(笑)。さっき大学時代の話にちらっと出てきたけど、書きたい気持ちはあるものの、書くべきものが自分の中に見つけられないまま、「それでも書くんだ!」っていうところにやっとたどり着けたのが25歳でした。2000年前後って、トラウマ語り全盛というか、ハードな体験談を持っている人にだけ己を語る資格がある、みたいな風潮がありませんでした? 何もない人は、わざわざハードな体験をするために海外を放浪するような時代だった。
そういう意味で私は平凡に違いないんだけど、ただ大学時代の親友との友情は、自分の中でかなりエポックメイキングな出来事だったんですね。それまではごく当たり前のように、恋愛至上主義みたいな価値観を持っていたけど、親友といちゃいちゃ友情を深めるなかで、「恋愛よりこっちのほうが尊い!」と思ったんです。で、私はこれを書きたいと。
今でこそシスターフッド(編註:姉妹のような間柄)を扱う作品は多いけど、私が第7回R-18文学賞・読者賞を受賞した段階では、「女同士の友情を書きたい」と言うと編集者さんに失笑されたくらい、テーマとして軽く見られていました。暗に、それは少女小説の領域だよ、みたいな感じで。男同士の友情は、時に恋愛より高尚な文学的主題として扱われるのと比べると、ものすごい性差別が隠れていたわけですが、当時はそこまで深いことは考えられず、ただただ親友との友情を書きたい一心で。でも、それだけだとどうも、背景が薄いぞという壁にぶつかったんです。
――補助線というか、視点を変える必要があるということですよね。
山内 受賞後に書きあぐねているうちに、ひとつのテーマに固執するんじゃなくて、もっと大局を見ないとダメだと思うようになりました。ちょうど、大阪、京都、東京と、いろいろな街に住んだ経験から、地元の富山を相対化して見ることができるようになったのも、このタイミングだった。富山のことを、あまりにも平凡で特色ゼロだと思っていたけど、実はものすごく社会的なテーマがそこには潜んでいることに気付いて。
というのも、高校時代まではそれなりにキラキラして見えた富山の中心市街地が、帰省のたびに店が消えて、さびしくなっていました。調べると、2000年以降の法改正によって、県道沿いに大型店舗が出店できるようになったことで、人の流れが変わったんだとわかり、そこから地方都市の特異性を考えるようになりました。特にネットの中では、ちょっとずつそういうリアルな田舎が語られるようになってきていた。県道沿いにチェーン店の看板がずらり、みたいな光景を小説に描いたら、富山に限らず、全国に住む人から共感されるのではと思うようになりました。
――田舎なんだけど、田舎に見えない田舎、みたいな。
山内 田舎というと、田んぼの中に民家がぽつんとか、里山的な風景を思い浮かべますよね。だけど田舎は田舎でも、うちはそういった景色とは無縁。何しろ小学生のころから物質文明にまみれていますから(笑)。田舎でもなく都会でもない、この中途半端な環境が何なのか、興味を持って調べだすと、すごくおもしろかった。平凡だと思っていた自分の地元こそ、書く価値があると思えた。これをそのまま正直に描けばいいんじゃないかと、やっと気付いたんです。
あれだけずっと、語るべきものは自分の中にはないと思っていたのに、足元を見たらあった。それから、地方都市のことを調べるにあたって読書の幅が広がったことで、フェミニズムの本も手にとるようになりました。ちょうど年齢的にアラサーで結婚を意識するようになり、女って何なんだろうと、向き合わざるを得なくなったんですね。
――「女性」の見え方が変わってきた。
山内 それまでは「女性であること」がテーマになるとは思ってもみなかったんです。地方都市で育ったことも、女性に生まれついたことも、当たり前すぎて目が行ってなかった。けど、地方都市と女性って、ものすごく掘り下げ甲斐のあるテーマだとやっと気付いて。それが結実したのが二作目の『アズミ・ハルコは行方不明』。アラサーの自分が感じたモヤモヤをすべてぶつけました。もう7年前の作品になるのか……。
――ライフステージの変化によって、テーマはさらに変わりますよね。
山内 はい、人は変わっていく生き物ですからね。大学時代の自分なんて完全に他人で、「誰だよ」と思いません?(笑)。今後も、その時々の年齢によって、感じ方や考え方が変わっていくんだろうと思います。そういう変化も含めて、正直に書いていきたいです。
――「20代で結婚せねば」の呪いがあったと思いますが、30歳になってその呪いとどうやって向き合っていったのかを伺いたいです。
山内 一応、20代のうちに結婚したいよーと、彼氏(今の夫)に訴えたことはあったんです。でも、「それはあなたの経済力がちゃんとしてからじゃないと無理なんじゃない?」と言われて、やんわり断られました(笑)。当時はまだ単行本が出る前で、文学賞とっただけのニートでしたから。実は私、ずっとお父さんに家賃を払ってもらっていたんです。それで彼氏に、その経済状況をなんとかしないと結婚はできないと言われ、「ほんとそのとおりですね! 失礼しました!」と思ったわけです。
たぶん多くの男性は、結婚=妻子を養うものって考えてますよね? 女性も、生活費は男性が出すものだと思ってる。こうした旧来的な価値観は今でも残っていると思います。でもうちの夫、もとからそんなこと考えてもいない、なかなかのジェンダーフリー男子で。私も私で、結婚して相手に食べさせてもらう、みたいな発想はあんまりなかったので、とにかくまずは、自分の宙ぶらりんな夢をなんとかしなければと、そこで気合いを入れ直せました。もしあそこで結婚して、養われる立場になっていたら、踏ん張りきれずにデビューできなかったかも。
20代を通して、人生に行き詰まると結婚に逃げようとしてしまう悪い癖があったのですが、どれも失敗したおかげで結果的に今、いい結婚になっているなぁと思います。私の個人的な体験から教訓を引き出すとすれば、結婚は、「してもしなくてもどっちでもいい」くらい余裕ができてからしたほうがいい。
――取材したり書くことで東京の新しい姿は見えてきましたか? 例えば『東京23話』(ポプラ社)ではすべての区をスケッチしています。
山内 『東京23話』を書いていた時は、まだ私も東京の街に詳しくなかったので、調べ甲斐がありました。夏休みの自由研究みたいな感じで。ここ4年は、東京都交通局が発行しているフリーマガジンにお散歩エッセイの連載をしていたので、毎月いろんな街に行きました。これも楽しかったな。東京は時間の層が複雑に重なっている、考古学ならぬ考現学の街ですね。
ただ、本当に短いスパンで再開発を繰り返しているので、新しい姿にはあんまり価値を感じないかも。むしろ東京の良さは、古いものが残っていて、しかも現役なところだと思います。地方には、昔ここで店をやっていたけど、数十年空き家という建物がたくさんあります。でも東京はそういう建物が、テナントとしてちゃんと回転しているし、歩いて買い物できる街なんです。こういうのはもう東京くらいにしか残っていないかも。何でも商業ビルの中に押し込められる時代なので、徒歩文化はますます稀少価値が高いです。
――最後に、上京してから悩んでいる人へのメッセージをいただければなと。東京に残るか、帰るかで悩んでいる人もいると思うんです。
山内 自分の気持ちに正直になることに尽きるかと。本当は地元に帰りたいのに、見栄張って帰れないなら、帰ったほうがいい。逆に、上京したいけど怖いって思ってるなら、その怖さはしっかり乗り越えておいたほうがいい。そうじゃないと、一生東京が怖くなるから。恐怖には早い段階で打ち勝っておいたほうがいい。と、少し偉そうなことを言ってみたのでした(笑)。
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お話を伺った人:山内マリコ
1980年、富山県生まれ。2008年に「女による女のためのR-18文学賞」で読者賞を受賞。12年『ここは退屈迎えに来て』で作家デビュー。近著に『あたしたちよくやってる』など。
Twitter:@maricofff
聞き手:岡本尚之
編集者。大阪芸術大学芸術学部映像学科中退。関西学院大学社会学部を卒業後、新卒で出版社に入社。現在は新聞社で頑張っている。学生時代はサッカー、ゴルフ、テニス、水泳、フットサル、バドミントンと、たくさんスポーツをしていた。サンフレッチェ広島サポ。
Twitter:@deb_nez