四段になって数えていた。
六十連勝すれば名人になれる。
だが勝ちたいと思う勝負に負け何度も挫折した。
その度に立ち上がり、上を目指した。
何故A級八段になれたのだろう。
体も弱いし将棋も余り強くない僕が、何故?
神様のすることは僕には予測できないことだらけだ。
願うことは、これから僕の思い描いた絵の通りに
現実が進んでいくことだ。これからが本当の勝負。
そう思っている。
(村山聖A級初昇級時の手記)
村山の没後10年に囲碁将棋チャンネルというCS放送で放送された『村山聖 没後10年特別番組 まっすぐに生きて』という番組を録画してあり、この週末にDVDを引っ張り出して見た。
無理に感動的に仕立て上げるのではなく、彼を知る関係者の生の証言をつなぎ合わせていくことで村山聖というユニークな人物の個性を明らかにしていく。改めて、とてもよい番組だと思った。
中野隆義(観戦記者)
麻雀で自分が浮くと帰ろうし、引き止められると「ボク、今日は病院に行って注射を打たなければいけないんです。」とウソの言い訳をした。
麻雀をしようというと、「お金があったかどうか」といって、財布を持たないのでポケットを方々探ったら次々に札が出てきて、結局十何万円持っていた。
田村康介(棋士)
午前2時か3時に麻雀で呼び出され、村山が国士無双をあがると「オレ、もう帰るわ」といった。
A級なのにあまりにダサい格好をしているので、見かねて無理やり派手なアロハシャツを買わせたら、そればかり着て連盟に現れ、村山はそういう人なんだということになった。
鹿野圭生(女流棋士)
ネクタイを輪っかのまま控え室に置きっぱなしにで、「だれの」と聞いたら「分かるでしょ」と言われた。
薬師丸ひろ子のファンで「薬師丸先生」と呼んでいた。
村山が既にプロになっているとき、奨励会時代に指してもらって、全然手加減してもらえず何連敗もして、やっとの思いで一勝したら、村山に「クソー」と言われた。
鹿野圭生(女流棋士)
負けず嫌いで、普通のゲームでも負けるとすごく悔しがり、必ず「オレには将棋しかないんじゃー」と言った。あまりに本気で言うので、みんな笑ってしまった。
皆でカラオケに行き、当然A級の村山が払うのかと思ったら、支払いのときになって、村山が走って逃げた(結局ちゃんと払ったらしい)。
瀬川昌司(棋士)
カラオケで、瀬川が歌っている途中で、何度も村山に消された。瀬川も腹を立てて、村山が歌っている途中で消した。小学生のように、お互いに消しあった。
順位戦で負かしたら、村山がゴロンと後ろに倒れて「今日はアナタに遊ばれたー」と言った。
村山さんは本当に天才だったという印象があります。普通の人とは将棋のつくり方が違っていました。自分が考えに考えていって妙手を指すと、必ずそれ以上の妙手がかえってきました。逆に自分の調子が悪かったりウッカリをすると、それを警戒して変化したりして、勝ったりすることが出来ました。そういうタイプの人を私はあまり知りませんでした。
丸山忠久は、村山が8時間半に及ぶ大手術で片方の腎臓と膀胱を摘出した1か月後に、順位戦で深夜に及ぶ死闘を戦った相手である。
この日のことについて、森信雄門下の弟弟子増田裕司は、このように語っている。
この日は、師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた。
控室のモニターには図の局面が映っていて、村山さんの勝勢である。夜中の1時半頃だったと思う。体調が万全の人でも意識が朦朧とする時間である。「終盤は村山に聞け」と言われる程、絶対的な終盤力を持ってしても、手術後、この時間まで指している事自体、無茶である。午前1時43分、村山さんは逆転負けしてしまう。
増田には、対局する丸山の顔が鬼のように見えたそうである。
たまたま大阪にいてこの対局を見た先崎学は、このように書いている。
大阪で、偶然に、村山×丸山の順位戦を見る機会に恵まれた。
村山聖は、王将リーグで羽生と戦った頃の村山に、あるいは終盤は村山に訊けといわれた頃の村山に戻れるかというのが、最近の私の関心事の一つだった。
6月の中旬、村山は8時間半にも及んだ、生命も危ぶまれたほどの手術をした。
当然、半年なり一年なり休場して、体力の回復にあてる。これが常識である。
だが彼は順位戦を指すといいはった。身内、医者は正気の沙汰ではないと止めた。
この常識以前の正論を彼はきかなかった。
私は村山が指すと聞いたとき、書きにくいことを書いてしまえば、彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った。
順位戦は、彼にとって、特別な棋戦である。よく、医者に止められている酒を飲んで、酔っぱらったとき「はやく将棋をやめたい」ということがあった。
この言葉の上には「名人になって」という冠が隠されている。
名人になることだけが彼の望みであり夢なのである。
広い部屋に対局は一局だけだった。控の間には看護婦さんが、万が一の時のため待機していた。
将棋の内容は村山君が序盤から積極的に指し回して圧倒した。
まったく病み上がりの人間の指す将棋とは思えなかった。
いよいよあとは寄せるだけという局面を迎えたのは深夜の十二時だった。
ここまで村山君には一手の悪手もなかった。
寄せの入口で、一手、村山君がぬるい手を指した。守りの銀を攻めに使ったために一挙に自陣が危なくなった。局面は混沌として、粘り強さが身上の丸山君のペースかと思われた。時刻は一時を過ぎた。丸山君も簡単な勝ちを逃した。
その代わり、妙な自陣飛車がでて、もうなんだか分からない。
一時二十分。やっとはっきり村山勝ちになった。
桂を打てばお終いだった。村山君は一分将棋のなか詰ましにいった。
瞬間、あっ危ないなと思った。本能で打ちそうな桂を打たなかったのが嫌な予感を呼んだのである。
丸山君はするりと玉をかわした。
(中略)
最後は三十三手詰め、村山君にはツキがなかった。終了は一時四十三分。
感想戦は一言もなし。村山君の顔は見るに忍びなかった。
いいものを見た、と思った。
あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を将棋の神様が見捨てる訳がない。
本心からそう思えてならなかった。
丸山は、この3年後に、佐藤康光を破り、名人位に就く。
「名人になって、将棋を辞めたい」が口癖で、「名人になるためには、時間が無いんだ」と言って、中学生のとき、親戚一同に土下座して将棋の道に進むことを決めた村山だが、精神と肉体の極限までしのぎを削って闘った丸山が名人位に就いたことを、どんな感慨で天から眺めた事だろうか。
以下は、師匠であった森信雄の追悼文である。
昭和57年9月、お母さんに連れられて、関西将棋会館の道場で会ったのが、村山君との初めての出会いだった。
ワイシャツの袖をまくり上げ、足元を見ると裸足で、
「靴下をはかんとあかんぞ」
「この子は冬でもこうなんです」
ネフローゼのせいで、ふっくらしていて、すでに独特の風貌だった。
ひと目みて、弟子にすることに決める。今にして思うと不思議な縁だった。
奨励会入会試験は合格したが、私が師匠になることで、厄介な問題が生じ、結局、自主的に入会を見合わす結果になってしまった。
事情を知らない私の軽率さはあっても、大人の問題で、子供の村山君には関係ないこと。
そう説得してまわったが解決できず、悩んだ末に折れてしまったのだ。
「なんで、なんで奨励会に入れないの」
村山君はワンワン泣き出し、今もこのときの姿が目に浮かぶ。このとき、決意した。
「一年待てば堂々と入れるから、私にそれまで責任持ってあずからせて下さい」
このときの事はもう過去の事なので、つらかったなあという印象しか残っていないが、それ以上に、村山君との運命的なものを感じる。
私は当時独身で、関西将棋会館の近くに住んでいた。
村山君が初めて家に来た日、さっそく盤駒を取り出し、パチンパチンとたたきつけるように棋譜を並べ出した。
お母さんに聞くと広島の家でも毎日、「名人になるんだ!」と叫びながら、勉強していたそうだ。「駒音を静かにな」。
ある日、私の家で研究会をしていて、学校から帰った村山君と一局指す。横歩取りからの手将棋で、早指しで野性味のある将棋と思った。私の必勝形になった瞬間、王手をうっかり、村山君がさっと私の玉を取った。みんなあっ気に取られ「師匠の玉を取る弟子がいるか」。
村山君は狭い机の下にフトンを敷いて、もぐり込んで寝ていた。初めの頃、私が手料理を作ったが、まずくてやめる。一度、食事の片付けで洗いものをさすと、「森先生、手がきれいになりました」。
学校から帰るとすぐ連盟道場に行き、私が迎えに行って、食堂で夕食を一緒にしていた。
私が夜遅くまで麻雀をしていると、雀荘まで村山君が来て「先に帰って、寝ときや」と言っても待っていた。子供の頃から病院生活が長かったせいか、ひとりで寝るのをさみしがっていたようだ。
ある晩、40度近い熱が出た。氷で冷やすのだが、
「森先生、今、何度ありますか?」
「うん、39度やなあ、大丈夫か」
しばらくして「今何度ですか。42度になったら、僕死にます」体温計をみると、41度を超えていたが、「うん、40度やなあ」とごまかした。朝方、熱が引いた。
一度、散髪に行かないので、髪の毛をつかんで引っ張っていったことがある。泣きながら抵抗したが、これに凝りたのか、たまに行くようになった。
二人とも風呂が苦手、顔を洗わない、歯を磨かなくても平気、奇妙な同居生活だった。
会館ですれ違うと、村山君が私を見て「まずい」と姿をかくし、何でもないのに「こらっ」が二人のあいさつだった。
とても愛敬があって、人気者だった。体調のことは、いつも油断できなかったが、いつのまにか弟子以上のものを感じるようになった気がする。
一年たち、奨励会入会試験も無事にクリアし、やっと村山君の棋士人生がスタートした。
奨励会に入り、休むことが多かったが成績は抜群で、どんどん昇級していった。
病院から奨励会に出たこともある。そんなときは、広島からお母さんが来て、身の回りの世話をしていたが、たまに交代で私が病院に行き、いやがる村山君のパンツを洗濯したこともあった。
少女漫画を頼まれ、大阪まで、探し回ったこともあるが、血生臭いのはきらっていた。
爪を伸ばし放題だったのも、「伸びてくるものを切るのはかわいそうだから」、やさしさと慈しみの気持ちの表れだったと思う。
子供の頃、入院生活の病棟で、死んでいく子を何人も何人も見て育ったことも、村山君の人を見る目、人生を見透かす目を養ったのではないかと思える。
村山君の症状をめぐり、御両親、主治医の先生と、常にどういう判断をして、どう選択していくか、その話し合いの繰り返しだった。
そして何より本人が、病気で制約された自らの人生をどう切り開いていくか、闘いと葛藤の毎日だったかもしれない。
今年の5月、ガンが再発して入院したとき、一切を伏せていた。病室の名札もかけず、電話も、外でしていたそうである。
誰にも知らせるな、死去の際も密葬にするようにと、毎日のように言っていたらしい。
師匠にも知らせるなと聞いたとき、ちょっぴりつらかったが、村山君に何か考えがあってのことだろうと従うことにした。
御両親も迷っただろうが、ある日、電話で再発のことを知らされ、ショックを受けた。
食べてもすぐ吐き、40度の熱が出る日が続いた。痛みに耐え、薬にも頼らず、自分のからだで治そうという強い意志で、ガンと闘った。
今年一年休場して、来期にかける目論見は無残に村山君を引き裂いた。
40日間、放射線の治療を受けた甲斐もむなしく、転移した。
私は村山君にはもちろん内緒で、御両親からときどき、症状を聞くことにしていた。
そして、辛抱強く待った甲斐あって、仕事のついでにさりげなく立ち寄れば、という同意を得て、時期をみていた。
村山君を裏切らないようにと思いつつ、早く見舞って顔を見たいの気持ちだった。
平成10年8月8日、家から「村山君のお母さんから、さとし、もう駄目なんです」の知らせがあり、広島に向かう。
電車の中の聞き取りにくい携帯電話が鳴って、訃報を聞いた。間に合わなかった。
広島駅で出迎えてくれたお兄さんの車で、平安祭典に向かう。
村山君はフトンの中で寝ているようだった。
ふるえと悲しみが交錯して、白布に手がさわれず、泣きくずれるよりなかった。
まるいほっぺにさわると、今にも起き出しそうで夢を見ているようだった。
鼻の頭に汗が一滴あって、ただ眠っているとしか思えなかった。
家族ではないけど、お通夜に出させてもらった。お父さんは「毎晩、毎晩、さとしと一緒にいる時間が、こんなに多かったのは初めてです。この子は病院の生活ばかりだった」。
ひとりでいる時間が長かったなあ、村山君、つらかったけど、よく頑張ったなあ……。
お経を聞いている間、涙が止まり、静かな気持ちになった。
8月9日、午前11時、お葬式にも出させてもらう。昨晩、御両親と村山君の遺影の写真を一緒に選んだ。テレかくしの伏し目がち、ネクタイがずれ曲がっている、いつもの格好だ。凛凛しい表情の一枚を捜した。
最後のお別れで、村山君にいっぱいの花を添えているときお父さんが「足の爪も伸び放題で……」となでてあげていた。
遺髪を切ろうとしたとき、御両親が泣きくずれた。「さとし君、よく頑張ったね」。
からだを蝕んだ悪魔ももういない。悔しいけど、これから静かな時間でゆっくり休んでな、村山君。
脱水症状、腸閉塞、最後まで痛みに耐え、病気と闘い、復帰する執念を捨てなかった。
痛みがひどくなり、医者がたずねると、ようやく「うん」とうなずいたそうである。点滴に薬を入れると、急に飛び上がるように「これは何?おかしい」と言ったそうだ。
症状が悪化しても、ずっと意識があったが、眠るように意識不明になっていった。
最後のうわ言で、「○○○、○○○、2七銀」と将棋の駒を符号で、二言、三言、話してつぶやいたと言う。
平成10年、8月8日、午後零時11分、村山聖は永眠した。
「満29歳の若さでしたが、その倍以上の人生を凝縮して生きてきたと、私たち家族は信じています。今まで本当に有り難うございました」お父さんの言葉である。
私は村山君との人生との関わりで、どれだけ彼を理解していただろう。
とっても幼くかわいい面と、物事や人の心の奥を見透す、洞察のすごさの二面性が村山君にはあった。
子供が好きで、やさしかった。
「師匠は弱いですから」と、あまり一緒に飲んだことはないが、酒も麻雀も強かった。
純粋さからくる一本気なところもあったが、常に村山流の理詰めの考えによるもので、納得させられ、すべて任せていた。
村山君が、真っ白いお骨になっても、近くにいる、まだ遠くにいっていない気がしてならない。
帰りの車で別れ際、お兄さんが「さとしはいつも覚悟はしてたんですけど、復帰するつもりでした。最後まで、復帰することをあきらめてなかったんです」。
死んでも、村山君はいつも私のそばにいる、そう思うと、さみしくはない。
村山聖は汚れのない生をまっとうした。
戒智山聖英居士、さようなら。
村山聖八段が亡くなったのが1998年8月8日。
故人の遺思により親族で密葬。
日本将棋連盟には8月10日に訃報が伝えられた。
(8月9日付で九段を追贈)
8月10日、竜王戦の対局中だった羽生善治四冠(当時)は昼休みにこの報せを聞いた。
近代将棋1998年11月号、故・池崎和記さんの「普段着の棋士たち 関西編」より。
8月11日
広島の村山九段宅へ。急逝が伝えられた翌日である。
広島駅を出たところで偶然、山崎四段と出会った。聞くと、彼もこれから弔問にいくところだというので一緒にバスでいくことにした。
私も山崎さんも村山さんの家がどこにあるのか知らない。住所を頼りに停留所の見当をつけたが、そこから先がわからない。バスを降りてから地元の人に聞くと、まだかなり先だという。住宅地のせいかタクシーが一台も通らないので公衆電話で呼び出した。こんなことがあって到着するまでずいぶん時間がかかった。
「昼間、羽生さんが来られました」とお父さん。「一人ですか」「ええ、一人です」。
羽生さんは前日、東京で竜王戦(対郷田戦)があったはず。えらい人だな、と思った。
村山さんの部屋を見せてもらった。本とCDとビデオテープでぎっしり埋まった部屋。段ボール箱が積み上げられているのは、大阪のアパートから運び出したものだろう。
(中略)
ご両親から広島での入院中の様子をお聞きし、私は大阪時代の話をした。「聖は昔からおかしなことを言ったりしたりすることがよくありました。そのときは私たちにも意味がわからなかったんですが、あとになってみると、ああ、あれはこういうことだったのか、とわかるんですね」とお父さん。これは私にもよくわかる。同じことを大阪でも何度も経験しているからだ。
約一時間おじゃまして玄関を出ると、お母さんが山崎さんに「聖のぶんも頑張ってね」と言った。
帰りはお父さんが車で大通りまで送って下さった。村山さんは地元名物のシュークリームが大好物だったという。そのシュークリームを買って帰ろうと思い、広島駅で売っている店を探し回ったが、残念なことに見つからなかった。
8月10日の対局が終わり、当日の午前0時過ぎに帰宅した羽生善治四冠は、朝一番の飛行機で広島へ向ったという。