今日「読む国会」というブログで、「安倍総理の「政治主導」が的はずれである理由」という記事が上がっていた。
この貧弱なブログとは比べ物にならないぐらい立派なブログであるが、少し違和感を感じた。
読む国会さんの記事を要約すると、良い政治主導というのは国民の高い期待に基づいた政策をやることであるとあった。
確かにこの点は当たっているだろう。
しかしながら本質をまったく理解してないのではと思ったので、反論してみたい。
あらかじめ言っておくが、この記事では、政治主導が的外れだという点について反論するのであって、加計学園の問題について政権に説明する必要がないなどというつもりは全くない。
政治主導とは世論主導ではない
国民の多くが納得していない加計学園をめぐる説明を政府に求めることこそが、「政治主導」である。
まず、獣医学部そのものの必要性も必ずしも国民の総意に基づいているとはいえない
これは、全くの間違いである!
この記事を読む限り、政治主導というのは、政治が加計学園という全体から見ればごく一部の事柄に関しても、国民の総意に基づいて行うことであるということみたいだ。
つまり、一つ一つの事柄に関しても、世論に基づいて政治が行革を進めていくことが、良い政治主導だと考えているようである。
しかしながら、全く違う。
政治主導というのは、国民から選ばれていない官僚ではなく、国民の審判を仰ぐことのできる政治家が主導して、大きな枠組みで行政改革を行っていくことである。
ここでいう国民の審判というのは、当然選挙である。
つまり、ここで重要なのは選挙であって、世論ではない。
もちろん世論も大事ではあるが、一つ一つの事象について世論に基づいて行うことが政治主導だと考えているならちゃんちゃらおかしい。
一つ一つの事象について、国民の総意に基づいて行うということは、すなわち世論に基づいて政治が動いていくことに他ならない。
国民の総意??
ここでいう加計学園の問題というのは、国家戦略特区のなかの一事案であって、政治主導で行われていることというのは、国家戦略特区制度のことである。
そして、国家戦略特区制度は、国会の議決を経て、衆議院参議院を通過したわけである。
つまり、国民の意思ということである。
国家の意思は一つであるからして、衆参を通過する前はいろんな意見があるとしても、衆参を通過すれば、国民の意思として決定されるわけである。
今回の加計学園の問題は、衆参を通じて決定した制度に基づいて行われているわけであって、国民の意思が反映されるのはこの法整備までである。
読む国会が主張するように、獣医学部の新設が必要かどうかまで、国民の総意に基づく必要があるなどというのは、ちゃんちゃらおかしい。
政府が世論に耳を傾けることは必要不可欠だが、国民の側から、世論通りに動け、国民が理解していないと言って主張するのは大いにずれている。
日本は選挙でしか決まらない。それが議会制民主主義を採用する我が国の制度である。
もしも、国家戦略特区の仕組みが不透明で変える必要があり、国家戦略特区を廃止する必要がある、もしくは政府の説明が不十分だと考えれば、次の選挙で審判を下すしかないのだ。
国民が真に、政府が国民の理解を超えて暴走していると判断すれば、鉄槌がくだるのである。
まとめ
よくいろんな法案で、国民の意思に反する、国民の理解が得られていないという声が聞こえるが、これは全く間違っている。
上でも述べたが、衆参を通過した時点で国民の意思となるのである。
それが、議会制民主主義たる日本の制度である。
内閣が本当に国民の意思と反する行動を行っている、となれば国民の怒りの鉄槌が、選挙で下され、政権は交代するわけである。
重ねて言うが、私は加計学園の問題なんてどうでもいいとか、政府は説明を果たさなくていいとか言っているわけではない。
政治主導とこの問題を絡めることが間違っていることを指摘したかったまでであって、政府が説明を果たす責任は当然にあるだろう。
「読む国会」さんをディスるつもりは全くないのだが、今回の記事はちょっと違うだろと思ったので、反論記事を書いた。
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