消しゴム版画家のナンシー関が亡くなったのも、思えばこの時期、2002年6月12日のことだった。ちょうどきょうが10年目の命日にあたる。これにあわせて世界文化社から単行本未収録の作品をまとめた『お宝発掘! ナンシー関』が出たほか、朝日新聞出版からはノンフィクション作家・横田増生の手になる『評伝 ナンシー関――「心に一人のナンシーを」』が上梓された。
これまでアマゾン・ドット・コムやユニクロなどのルポルタージュを発表してきた横田がナンシーの評伝を出すと知ったときは、かなり意外な感じを受けた。実際、読んでみると、横田はナンシーが軸足を置いていたサブカルチャーについてほとんど素養がないことを明かしている。さすがに「石野卓球(電気グループ)」という誤記(P.149)を見つけたときにはずっこけたが(増刷分ではぜひ修正していただきたい)、この距離感がかえって、ナンシーを変にカリスマ化したりせず、冷静に分析することを可能にしたように思う。その取材対象もナンシーの肉親や友人、仕事の関係者にとどまらない。なかには彼女が仕事道具の消しゴムを買っていた店にまで話を聞きに行ったりとじつに幅広い。
そもそもナンシーが消しゴムを彫り始めたのは、青森の女子高時代にさかのぼる。クラスで消しゴムハンコを彫るのが流行り、そのなかでも抜群にうまかったナンシーは、みんながさっさとやめてしまってからも卒業までずっとつくっていたという。
高校時代のナンシーはこのほか、朝礼の最中に友人からメモ帳を借りて、長嶋茂雄についてコラムのようなものを書き出したり、クラスメイト何人かで芸能新聞のようなものをつくったこともあったという。本書にはそのときの「番組寸評」と題するナンシーの下書き原稿が引用されているのだが、すでにナンシー以外の何者の文章でもなくうれしくなる。雑誌「ビックリハウス」やラジオ番組「所ジョージのオールナイトニッポン」に投稿していたのもこのころだ。ナンシーに多大な影響をおよぼした「ビートたけしのオールナイトニッポン」が始まったのは1981年、高校3年の元日で、すっかりとりこになった彼女は毎週録音を欠かさず、放送後3日くらいは番組の内容を親友相手に延々と話していたそうな。
その後、上京したナンシーは一浪の末に大学に入るのだが、すぐに授業に興味をなくし編み物や粘土細工をするなどして暇をつぶすようになる。このとき、思い出したように消しゴム版画を再開、ひょんなことから仕事へとつながっていくのだから妙なものだ(詳細はぜひ本書で確認していただきたい)。
1985年に23歳で出版業界で仕事を始めたナンシーは、29歳のとき初めての単行本を出し、30代初めに「週刊朝日」と「週刊文春」でテレビコラムの連載を持つにいたって全国的に知られるようになった。33歳にしてマンションを購入したという、そのサクセスストーリーは同業者としてうらやむばかりだ。とはいえブレイクまでまったく苦労がなかったわけではない。先述のとおり高校時代に投稿していた「ビックリハウス」の編集部へ売りこみに行ったとき、編集者の彼女に対する印象はけっしてよくなかったようだ。当時の同誌の編集長・高橋章子は、最初からナンシーとは気が合わないと感じ、後年にいたっても自分は嫌われていたと思うと明言している。
本書では高橋以外にも、ナンシーとは敵対していた人物からの証言がいくつか紹介されている。たとえば、ナンシーが何度となく舌鋒を向けてきた芸能人のひとりである川島なお美。その川島からあるとき、ナンシー宛てにワインが贈られてきた。ナンシーはそれを花見の席で開けて飲んでみたところ、まずかったと対談ではっきり言っているのだが、川島としてはどんな意図があったのか、本書では当人の口からあきらかにされている。
意外な関係といえば、最近、杉江松恋氏がナンシーとの類似を指摘していたマツコ・デラックスとは、マツコがまだ無名時代に雑誌「クィア・ジャパン」で編集長・伏見憲明を交えて鼎談していたりする。そこでナンシーは、ほかの媒体ではほとんど語ることのなかった自分の体形やコンプレックスについて掘り下げて語っていた。
本書ではたびたび、ナンシーの体形への言及が出てくる。それは彼女を神格化したりせず、あくまで人間としてとらえようという著者の姿勢のあらわれとして評価できる反面、以下のような文章にはちょっと首をひねったりもした。
《もしナンシーがその体重を平均値にまで落とすことができたとするなら、テレビにしがみつくようにコラムを書き続ける以外にも、お化粧をして着飾ったり、恋愛をしたり、結婚したりしていたのではないか、と思う。(中略)しかし、そうした女性としての生きる楽しさや華やかな部分を、二〇歳までにすっぱりと切り捨てると決心し、仕事に打ち込んだことが、ナンシーが成功した一つの要因だったことは否定できないように思える》
たしかに容貌の変化が、その人の性格や生き方を変えるということもあるだろう。だが、表現したいという欲求は容貌とは関係なく、どうしようもなく湧き出てくるものではないかという気もする。
とはいえ全体を通して読むと、著者の横田がナンシーの体形にこだわるのは、あまりに早い死を惜しんでのことだというのがわかる。90年代半ば以降には、ちょっと歩くだけでも息切れし、立ち止まって呼吸を整えなければならないほどになっていたという。さらに膨大な仕事量へのプレッシャーから、ナンシーはストレスを抱え込んでいるようだったと、複数の関係者が語っている。もし、ナンシーがもうちょっと体に気を遣い、仕事量をセーブしていたのなら……とは、ファンなら誰しも考えることではないか。
ナンシーが亡くなってからというもの、世間で何か起こるたびにナンシーだったらどう論じただろうとふと思ったことがあるのは私だけではあるまい。それでも、ナンシーの文章を読み返すと、登場する固有名詞を変えれば現在でも十分通用するような記述が多々見つかる。たとえば本書に引用されている、テレビ番組で企画されたユニット(ブラックビスケッツとポケットビスケッツ)同士のCDセールス対決に対する《あんまりあこぎなことすんなよ》(『テレビ消灯時間2』)という言葉は、昨今のもろもろの現象にも向けられてるような錯覚におちいる。
あるいは「毎日新聞」でナンシーが子連れの母親たちの自己陶酔ぶりを批判したときには、抗議の投書があいついだというが、ソーシャル化著しい現在のネットで同様の発言をすればもっと激しく炎上したのではないか。ちなみにこのときの抗議でもっとも多かったのは「子供がいない人には子育てのことはわからない」というものだったという。この手の「実際にその立場でなければ~のことはわからない」という物言いを楯にした、硬直した現場主義ともいうべき風潮は最近になってますます巷間にはびこっているように思う。しかし現場に行かずとも、人間や社会の深層を鋭くえぐりとることは可能であるとまさにナンシーが身をもって実証している。
『信仰の現場』のようなすぐれたノンフィクションもあるものの、基本的にナンシーの“現場”はテレビの前だった。
テレビの前に座り続け、コラムを書き続けたナンシーの視点を著者は「定点観測」になぞらえる。それこそがナンシーのテレビ評をあとから読み返す際の面白さだというのだ。
《いろいろな媒体に書いた文章を時系列に並べていけば、何人ものタレントの人物評になっており、またポップカルチャー論や時代評論としても読むことができる。そして、その材料を誰もが手に入れることのできるテレビ画面からの映像だけに絞り、そこに、ナンシーがそれまで蓄積してきた情報と、独自の嗅覚とを加えて、時代の流れを読み込んでいく。
本書では、ナンシーが小学生のころファンだった郷ひろみが例にとられている。それを読むと、たしかにナンシーの「定点観測」が超一流のものであったかがよくわかる。おそらくそれは郷にかぎらず多くの芸能人でも同じようなことがいえそうだ。それを確かめるためにも、ナンシー関の全コラム集がほしい。出版社別とか著名人による選集でもなく、ただひたすらに時系列でコラムが並んでいる、そんな本が。
……と、これだけベタ褒めするとそろそろあの世にいるナンシーから「やめてくれ」と言われそうなので、このへんにしておく。いや、もう一つだけナンシーに伝えたいことがあった。そう、ナンシーが生前、結婚を願ってやまなかった志村けんといしのようこが、いま約20年ぶりに舞台で共演しているということを。それを伝えたところでこの記事を締めたい。って、何だそれ。(近藤正高)