五穀豊穣(ほうじょう)を願い、松原神社(兵庫県尼崎市浜田町1)で行われる神事で、珍しい食事が登場する。名前は「ダンゴノボー」。木製の膳には、ハマグリやシイタケ、おはぎなど約10品が盛られている。祭りなどで神前に供える食事は米や酒が多く、豪華なものは珍しい。興味をそそられ調べてみると、ユニークな響きからは思いもよらない、悲運の帝と地域のつながりが浮かび上がってきた。(池田大介)
■讃岐落ちの道中にささげた食事再現
3月中旬の正午過ぎ、松原神社の境内に、十数人の地域住民が集まり、神事の準備を進めていた。拝殿にはダンゴノボーも五つ用意されている。準備したのは神社の世話方「宮講」の寺井利一さん(61)。内容は、アジのかすむし▽ハマグリやバイ貝などの魚介類▽大豆やもち米を煎(い)ったオヨネ▽シイタケと水菜、湯葉、カマボコ、ゴボウが乗った一皿▽塩味のおはぎだ。団子を奉納するので「団子奉(だんごのぼー)」というわけだ。
始まりは不明だが「大庄村誌」に掲載された古文書に団子奉の記述があり、戦国時代にすでに存在していた可能性がある。同神社の森本政典宮司(65)が、約900年前のある伝承を語り始めた。
平安時代末期、都では天皇家、摂関家の継承をめぐり、源氏や平氏も加わった大規模な内乱が勃発した。争いに負けた崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)に流される途中で暴風に巻き込まれ、尼崎に身を寄せたという。その際、提供された食事を再現したものこそがダンゴノボーなのだ。
ちなみに、春祭りで食事を準備するのは寺井さん方を含む4家の役割で、上皇の食事を用意した一族の末裔(まつえい)と伝わる。
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午後1時半ごろ、神事が始まった。宮司と宮講の約10人が、上皇が祭られている本殿にダンゴノボーを供える。
森本宮司が祝詞を唱え、サカキで災いを振り払い、巫女が刀を片手に拝殿で舞を披露。境内に設置された熱湯入りの二つの釜にササを漬け、勢いよく湯しぶきを飛ばした。最後は宮司らが本殿へサカキの玉串を供え、無病息災などを願った。
祭りを終えた森本宮司は「上皇を思い何百年と途絶えることなく先代が伝えてきた。食材もなかなか手に入りにくくなっているが、地域の誇りを次の世代に伝えていく」と話した。
■神社周辺、他にも上皇の足跡
松原神社周辺では「ダンゴノボー」の他にも崇徳上皇の足跡が伝わる。果たしてこの地を踏んだのか。史実やいかに。
上皇は松原神社周辺の旧浜田村で休息したとされる。旧村域には江戸時代以前から「崇徳院」という地名があり、今も町名として残る。滞在先であり、上皇が亡くなった後に社を設けて祭ったとされる武内一族の子孫も松原神社の隣に住んでいる。
火のないところに煙は立たぬ。何らかのつながりはあるはずだ。
「当時の交通事情、そして、上皇の霊を鎮めるお宮とのつながりが、この伝承を生み出した可能性があります」
そう指摘するのは、兵庫県尼崎市立歴史博物館の辻川敦さん(63)だ。
中世の尼崎は、京都と西国を結ぶ港や陸路があり、交通の要所として栄えた。保元の乱で勝利を収めた後白河天皇は、崇徳上皇の怨念を鎮めるため戦場跡に宮を建て、浜田の荘園を寄進したという。
「実際に上皇が立ち寄ったかは定かではありません。しかし、西国への要所であり、上皇のお宮にゆかりの地だからこそ、リアリティーを持って語られたのではないでしょうか」
失意のうちに亡くなり、故に怨霊になったと恐れられてきた上皇。悲運の帝を思ってか、浜田の人々は社を設け、食事を供えるなど丁寧に祭り、語り継いできた。松原神社筆頭総代の堀内康和さん(72)は語る。
「怨霊のイメージは全くないんですよね。私たちにとっては地域を守っていただいている大切な神様ですから」(池田大介)