開設から間もない神戸三田キャンパス=1995年ごろ(関西学院大学提供)

 1995年3月16日、関西学院大学神戸三田キャンパスの竣工(しゅんこう)式。1月17日に発生した阪神・淡路大震災への対応で多忙を極める貝原俊民知事(当時)も駆けつけ、「都市の安全性が問われる今、自然と人間の共生を理念とする学部が生まれることは喜び。阪神復興の力となってほしい」と祝辞を述べたという。

 震災により、大学全体では学生や教職員、卒業生に多くの犠牲者が出た。入試開催もままならず追加試験を行うなど、職員らが奔走。悲しみや混乱を乗り越え、新キャンパスは三田の地で産声を上げた。初年度の入学生は396人だった。

■新天地

 三田への進出は、それ以前から多難だった。大学が発行する資料には「北摂土地問題」として、当時の様子が伝わる。

 85年、当時の理事会は土地不足の解消や将来の発展に向け、県が大規模開発を進めていた三田市の土地約66万平方メートルの購入を提案。だが、「大学を無視している」などと学内で強い反発が巻き起こった。

 その後、理事長や学長の辞任に至る対立を経て、大学は従来の方針であった「上ケ原一拠点主義」を転換。大学8番目の学部となる「総合政策学部」が創設された。21世紀を見据え、地球規模の問題解決へ向けた政策立案を目指すことを目的とした。

 98年に赴任し、現在は神戸三田キャンパス活性化を担当する古川靖洋副学長(62)は「関東の大学でも郊外型キャンパスが増えた時代だった。その後の理学部の移転と拡充を考えると上ケ原だけでの発展は厳しかったのでは」と振り返る。