天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)
「それでこそわが血まみれの花嫁だ 憎悪と敵意こそ真の尊敬を生む源となろう 二人してたそがれの王国を築こうではないか」
宮崎駿『風の谷のナウシカ』より、皇兄ナムリスの言葉
花は咲き、花は散る。
人は生き、人は死す。
変えられないさだめ。
それでは、人間が生きてあることの意味とは、価値とはどこにあるのだろう。恋に? 愛に? 善に? 美に?
否、そもそもそのようなものはどこにも存在するはずもない、すべては無意味にして無価値だと語る虚無の思想を、古来、人々は底知れぬ恐怖を込め、こう呼んできた――「ニヒリズム」と。
両雄並び立たず
古語にいわく、不倶戴天(ふぐたいてん)。何か激しい敵意や緊張をはらみ「ともに天を戴かざる」間柄を示す言葉である。
もし、アニメーション業界の世界的巨匠である宮崎駿にそのような関係の人物があるとすれば、それは戦後日本を代表する天才作家手塚治虫をおいてほかにいないであろう。
そのくらい宮崎はことあるごとに舌鋒鋭く手塚の流儀を批判しており、その表現はときに「全否定」と形容したくなるほどのすさまじさである。
たとえば、かれは手塚の逝去に際しても「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と故人をしのぶにはあまりにも否定的な言葉を残している。同職の古なじみにもかかわらず、その反発の強さはただごとではない。
岡田斗司夫は著書『オタク学入門』のなかでこの宮崎の手塚に対する隔意を取り上げ、かれほどの大人物がここまで述べるからには「よほど何かあったんだろう、と下衆の勘ぐりをしてしまう」と、宮崎の「大人げなさ」を指摘している。
しかし、むろん、ここで猛烈に噴出しているものは、高々、かれが個人的に手塚を嫌っているといった次元の話ではなく、創作の秘密に関わる高度に思想的な問題に違いない。
いったいなぜ、宮崎はここまで手塚の業績を否定しようとするのか。この連載では全三回にわたってこのきわめて興味深い謎を取り上げ、そこから宮崎作品全体を俯瞰し批評してみることとしたい。少し長くなるが、最後までおつきあいいただければ幸いである。
さて、まず確認しておきたいのは、宮崎が具体的にどのように手塚を批判しているか、その実際のところだ。
たとえば、インタビュー集『風の帰る場所』に収録された一節がある。それによると、宮崎は手塚のマンガ作品から大きな影響を受けている。また、その作品について批判する意志はない。宮崎が否定的に捉えるのは、かれのアニメーションに関する仕事だけである。
宮崎は「彼がアニメーションでやったことは間違いだと僕は思うんです」と語る。そして「ええ、はっきり思います! 彼のやってたテレビ・アニメーションというのはね、彼は本来ヒューマニズムでないのに、そのヒューマニズムのフリをするでしょう。それが破綻をきたしてるんですよ。『ジャングル大帝』なんかでね」と続けている。
また、このときのインタビュアーは渋谷陽一なのだが、その渋谷の、手塚がニヒリストであることはかれの作品に定着しており、宮崎もまたその同じ構造のなかにひき裂かれているものの、それにもかかわらず宮崎には手塚治虫のような形での「ニヒリズムへの転落」をしない意図が見えるという言を受けて、こう述べる。
「その人物が死ぬと、安心して褒めだす人たちがいるんです。美空ひばりの生前にはね、聴こうともしないでいた奴がね、死んだら、いやー、やっぱり大した奴だったな、なんて言うんだよね。頭にきますよ。生きてるときにそう発言しろって言ってやったんだけど、僕は今でも手塚さんと闘っているんだと思ってるから。死んだと思って、安心して褒めたくないんですよ。あの人のニヒリズムに僕らは畏怖の気持ちで憧れ、影響されたんです。あの人の中に、その後のこの国の大衆文化の光と闇が凝縮されてあると思うんです。だから、死んだってちっとも安心なんかできない。彼への自分の言葉は、一番自分への鋭い刃にならなければならないはずなんです」(『風の帰る場所』より)
どうだろう、わたしはこの記事のいちばん初めに「不倶戴天」と書いた。しかし、ここで批判を超え、否定の域にまで達した反手塚の言葉にくるまれて投げ出されているのは、じつは虚無と人間性の激しい振幅のなかに生きた同道の天才作家への絶大きわまる敬意ではないだろうか。
宮崎駿の手塚治虫への言葉の裏には、個人的な敵意や隔意といった水準を遥かに超えた、創作者としての共感があると考えるべきなのではないか。わたしはそう考える。
それでは、その手塚への愛憎のさらに奥には何があるのか。その点について掘り下げてみよう。
ニヒリズムの風が吹き抜けるとき
宮崎と手塚を比較しつつ語るとき、その鍵となる概念は、やはり、渋谷が語るところの「ニヒリズムへの転落」である。
手塚はヒューマニストの仮面の裏にほの暗い魂の震撼を抱えた筋金入りのニヒリストであった。そのことはさまざまな論者が指摘しているし、何よりかれの作品を一読すれば即座に判然とする。
そしてまた、宮崎もスタジオジブリの大ヒットメーカーという名高い顔の翳(かげ)に悪魔的な素顔を隠した硬骨のニヒリストである。このこともまた疑う余地はない。
このふたりの、一見すると大きく異なる個性は「戦後民主主義的なヒューマニズム」への懐疑とニヒリズムへの強い親和性という一点で共通しているわけである。
ここでいうニヒリズムとは、人が生きるにあたって杖とする価値や意味の一切を否定し、すべては虚無であると見る暗黒頽廃(たいはい)の思想である。
いわゆる「手塚ヒューマニズム」の真骨頂が「人間は美しい、生きることは素晴らしい!」と人生の価値を高らかに歌い上げるところにあるとすれば、かれのニヒリズムはそれらすべての意味と価値が一瞬にして崩れ去り、失われることもまたありえると論じて真実を明らかにする性質のものだ。
手塚治虫とは、この人間性と虚無感の間で壮絶な思想的冒険をくりひろげた唯一無二の作家であった。
その強烈な矛盾は、まさに宮崎がいうようにたとえば初期の代表作『ジャングル大帝』においてひとつの臨界を見せる。
この作品のなかで、手塚は、遥かなジャングルの奥地における百獣の王レオが君臨する動物たちのユートピアを構想する。それは、かれ自身の言葉によると「人の誰も知らない森の奥や山の向こうで、動物たちが俗塵も浴びず天使のように無邪気に跳ね回っている世界」である(手塚治虫『ジャングル大帝』あとがきより)。
輝かしい生き物たちの楽園! 美しき生命の理想郷! だが、あらゆるユートピアがそうであるように、この密林の王国もまた哀しい欺瞞(ぎまん)を抱え込んでいる。
しょせん、肉食動物や草食動物、さまざまに相争うさだめの宿敵同士、生存競争の原理からのどかに外れて仲良く遊びあえるはずなどないのだ。
おそらく、宮崎がいう手塚の「破綻」とはこのことであろう。冷厳にして非情なる大自然の摂理に人間的な道徳観念を持ち込み、その結果、「あるべき姿」と「現実にある形」にひき裂かれる。それが、手塚が『ジャングル大帝』で見せた問題である。
あるいは宮崎はこの欺瞞と矛盾と破綻の名作を見て、己はこの轍(てつ)は踏むまいと考えたのかもしれない。その成果を、わたしたちは『ナウシカ』や『もののけ姫』に見て取ることができる。
これらの作品で描かれているものは楽園からも理想郷からも遠い滅びに瀕した自然世界である。そこでは人間的なるものはかぎりなく弱く、無力なのだ。
しかし、宮崎はだからといって虚無の深い淵に夢中になって本心を奪われ「すべてはむなしい」、「何もかも無意味だ」と呟くことも良しとしない。かれは人間中心的なヒューマニズムを批判するが、他方、人間否定のニヒリズムにも安住しえない。
その意味で、宮崎は手塚の業績を踏まえながらさらにその先へ行こうとしている。それが「いまでも手塚と闘っている」という言葉の意味に違いない。
宮崎の『ナウシカ』、『ラピュタ』、『もののけ姫』といった映画史上に残る傑作群を見るとき、わたしたちは容易に「何もかも滅びてゆくしかないのだ」という絶望的な思想を発見できるだろう。
しかし、宮崎はそういったみだらな漆黒の絶望に惹かれながらもあくまでほのかな希望を探り出そうと試みつづける。それは内なる「手塚ニヒリズム」との激烈無比の思想戦争、否、さかしらな思想など遥かに超越した修羅の生存闘争である。
深刻なニヒリストでありながらヒューマニズムを提唱し、偽りの理想を掲げることこそが最も重篤なニヒリズムの症状であるとすれば、絶望を直視し、破滅を抱擁し、その上でなおささやかな希望を見つけだすことこそはその種の卑俗なヒューマニズムを乗り越えた理想主義であるだろう。
宮崎がめざす地平はそのようなところにある。
すべて人間は死の宿命にあり、すべて文明は虚無を胚胎する。
とはいえ、その気高い理想はあまりにも到達困難な境地でもある。ニーチェが定義するいわゆる「神の死」以降のヨーロッパにおいて、ニヒリズムの誘惑にあらがった作家といえばまずドストエフスキーが挙げられることだろうが、そのニーチェやドストエフスキーですら完全にニヒリズムを否定しきれたわけではない。
否、むしろニヒリズムとは人が人として生きつづけるかぎり、どれほど文明が栄華を究めようと消え去ることはない思想、あるいは「実感」なのである。
科学が、文明が驕(おご)り昂(たかぶ)り栄えれば栄えるほどに、虚無の風は烈々と人の心を吹き抜ける。その意味で、ニヒリズムは人間社会に宿命的に付きまとう病理だ。
宮崎駿が生み出したすべてのキャラクターのなかで、最も歴然とこの思想を体現している人物として『風の谷のナウシカ』のナムリスが挙げられる。かれは亡びに瀕した未来世界で、倫理も道徳も国家も仲間もすべて無視し、きわめて享楽的に生きて死んでゆく。
その姿はまさに宮崎駿が幾人も生み出してきた颯爽たるヒーローたち、ルパンやコナン、パズー、アシタカなどの凄惨な陰画だ。
いい換えるなら、そのようないかにも元気で快活な「男の子」たちのなかにもナムリス的な虚無の思想は潜伏しているわけである。
この事実は、例によって宮崎駿最後の作品となるはずであった里程標的傑作『風立ちぬ』において明確に露出する。
この作品の結末で、作中、一貫して「少年」と呼ばれつづける主人公がたどり着いた場所は廃墟そのもののような「ガレキの王国」なのであった。
これを批評家の杉田俊介が『宮崎駿論』で述べているように自己嫌悪の表出に過ぎないと見ることもできるだろうが、もし宮崎が長年にわたって展開するニヒリズムとの闘争の一断面として捉えるなら、むしろ必然の描写であるともいえる。
ニヒリズムに対する闘争とは、虚無の存在を否定することではない。
そもそも、いつかすべての国は滅び、すべての城は崩れ、すべての旗は倒れ、すべての人は死す、それそのものはエントロピー増大の摂理が冷徹な暴君のように統率するこの世界において避けられない「事実」なのであり、ニヒリズムへの抵抗とは、この明々白々な宿命に対しどのように対峙するかという、いわば「態度」の問題でしかないのである。
したがって、ここでわたしたちは堀越二郎が人生の果てにたどり着いた場所にむなしさを感じるよりまず、かれがそこで選択した「態度」が「それでもなお生きつづけること」であったことに注目するべきだろう。
たしかにこの映画には、宮崎がいままでアニメーションでは決して見せないようにしていたはずの露骨なニヒリズムが表出している。
しかし、そこには、かつて少女ナウシカが呟いた「生きねば」という言葉が象徴しているような、かぼそい、だが純然たる生の意志だけがあらゆる思想や理念を超えてこの世の虚無に対抗できるかもしれないという宮崎のかすかな希望を確認できる。
これこそ、宮崎が幾多の矛盾と葛藤の末にたどり着いた、表裏一体の「手塚ヒューマニズム/ニヒリズム」の先の希望なのではないか。
絶望的かつ感動的な展開。だが、むろん問題はそれでは終わらない。次回は、その宮崎の作品を執拗に批判しつづけるいま一人の天才作家の発言を端緒に考えてみることにしたい。
すなわち、社会現象にまでなったヒット作『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』の生みの親にして宮崎駿の「一番弟子」――庵野秀明である。
(連載第二回「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」につづく!)
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