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ある日突然、私は“敵国人”にされた… ~イタリア人作家ダーチャ・マライーニさんに聞く、日本での抑留~

終戦から79年。
戦時中、日本で苦しんでいたのは、日本人だけでありませんでした。太平洋戦争開戦と同時に、日本に住んでいた一般の外国人たちが突然、捕らえられ、最長で3年8か月にわたり、隔離、管理されました。日本政府が行ったこの「敵国人抑留政策」の対象となった人の多くは、日本を愛し、日本社会で共に暮らしていた人たちでした。

今もなお世界で戦争がやまない中、私たちは、この歴史から何を学ぶことができるのか。
イタリア人作家ダーチャ・マライーニさん(87歳)は、実際に日本で抑留された一人です。敵国人抑留の歴史が「語り継がれていない」という危惧を抱いたダーチャさんは今年6月、その警鐘を鳴らすために来日し、戦時中に過ごした地を訪れました。私たちは、その旅に同行し、日本での抑留経験とそこから学んだことについて聞きました。

(クローズアップ現代 ディレクター 内田理沙)

来日したダーチャさんの旅に同行した

作家ダーチャ・マライーニ 日本人と共に暮らした幼少時代

イタリア人作家のダーチャ・マライーニさん(87歳)。1961年の作家デビュー以来、フェミニズムや反ファシズムをテーマにした作品を世に送り続け、ノーベル文学賞候補としてたびたび名前が挙げられています。また、小説家だけでなく、劇作家やジャーナリスト、フェミニズムの旗手としても活躍してきました。

ダーチャさんが日本で暮らし始めたのは、1938年10月、2歳のとき。アイヌ民族などの文化を研究する父・フォスコさんに連れられて、来日しました。フォスコさんが北海道大学で研究助手を務める1941年春までの間、一家は札幌市内の外国人官舎で暮らします。大学では日本人と外国人がともに学び合い、家族ぐるみの交流がありました。

ダーチャさん

私たちは日本人社会に完全になじんでいました。友達はみな日本人でした。北海道大学には、『ソシエテ・デュ・クール(心の会)』という平和に取り組む団体があり、会員には日本人も外国人もいました。日本人は外国人と穏やかに共生していて、人間らしく、思想を語り合える良い関係にありました。

フォスコさんが京都大学で講師の仕事を得ると、一家は京都へ移ります。ここでは日本人の乳母とともに暮らしました。一家は日本社会にすっかり溶け込み、周囲の人々とも信頼関係を築いていたといいます。

ダーチャさんが、京都に暮らしていた当時のエピソードを話してくれました。ある日、父フォスコさんと大げんかをしたときのことです。

ダーチャさん

父に本をぐちゃぐちゃにしたと叱られたことがありました。私は無実で、手を触れたことすらありませんでした。頭にきたので、私は家を飛び出しました。6歳の時のことです。京都の町中に一人で飛び出し、両親は必死に捜索しました。夕方になって、警察から電話がきて、『ダーチャという名前のイタリア人の女の子を保護しています』と言われました。両親は大急ぎで警察に向かい、ドアを開けると、私が机に向かって座っていて、その周りにへとへとにくたびれ果てた警察がいました。金髪のイタリア人の女の子が京都弁で「もうおうちには帰りたくない、ここで警察になる!」と、だだをこね続けていたのです。

「警察になりたいと言うほど、正義感の強い少女だった」と語るダーチャさん。まだこのときは、のちに “正義の象徴”ともいうべき警察からひどい仕打ちをされることになるとは、知るよしもありませんでした。

来日したばかりの頃のダーチャさん(写真左)

ある日突然“敵”と呼ばれて・・・抑留所で知った“権力とサディズム”

1941年12月8日の開戦後、日本では敵国の国籍を持つ民間人を抑留する「敵国人抑留」政策が始まります。
しかし、ダーチャさん一家は、変わらず京都で平穏に暮らしていました。当時イタリアと日本は同盟関係にあったためです。

日本人の乳母に育てられ、日本人の友人と交わり、日本語(京都弁)を流ちょうに話していたダーチャさん。
その生活が一変するのが、1943年9月。イタリアが連合国軍に無条件降伏したことがきっかけでした。日本政府は、北イタリアのサローに新しく成立したファシスト政府を承認。このファシスト政府に忠誠を誓わない者を、「敵国人」に準じて取り扱う、という処置を打ち出しました。
ダーチャさんの両親もそれぞれ宣誓書への署名を求められましたが、拒否。こうして、一家は「敵国人」として、抑留所へ送られることになったのです。

ダーチャさん

イタリアのファシスト政府を礼賛しなかったがために、ある日突然、軟禁されました。1週間後、名古屋の天白にある抑留所に移送され、その中で2年間、過ごしました。それまで日本人に囲まれてよい関係を構築していたのに、ある日突然、空気が一転したのです。戦争の論理でした。


トラックの屋根がない荷台に座らされて、抑留所まで連れてこられました。どのくらいだったか覚えていませんが、トラックで結構な時間がかかりました。覚えているのが、スーツケースを各自1個持ってくるようにと警察が言いました。


ところが私たちには1個だけ渡して、残りは没収されたのです。衣類や本、靴などを荷づくりしたのに、スーツケース1個を残して、全部持っていかれてしまったのです。あの日の強い風のことを、今でも覚えています。風が悪い知らせを運んでくるかのように感じられたのを覚えています。

ダーチャさんの両親はファシスト政府への宣誓を拒否したため、抑留された

一家が抑留されたのは、愛知県名古屋市の郊外にあった天白抑留所。もとは、民間企業の寮として使われていた建物でした。ここで、ダーチャさんをはじめイタリア人16人が抑留されました。警察の厳しい監視・管理のもと外部と隔絶され、自由を奪われた生活を送ります。

ダーチャさん

飢え、爆撃、そして物資の不足に苦しみました。体を洗うお湯さえありませんでした。

入浴は1か月に1回で、しかも警察官らが入った残り湯でした。抑留されるということは、物理的な塀や柵だけではなく、外部との関係や時の情報を完全に遮断されるのです。自由がないということは、情報も欠如するのです。戦況も知りませんでした。日米、どちらが優勢なのかもわかりませんでした。全く何も情報がありませんでした。知ることができないという苦しみです。

中でも最も過酷だったのは、飢餓でした。

ダーチャさん

私は小さなアリさえも食べていました。中庭を走るネズミだってすぐさまひっ捕まえて、分けて食べていましたよ。空腹だったから。あらゆる小さな部位まで全部分けていました。小さなかけらさえ、私たちにとっては生命でした。それがタンパク源でしたから。タンパク質が不足していました。そのため、私たちは脚気や壊血病になりました。みんな脚気を患っていたし、髪の毛が抜けたし、歯茎から出血する人もいました。筋肉が衰え、身体がうまく動かなくなっていました。

天白抑留所として接収された民間企業の寮

さらにダーチャさんたちを苦しめたのは、抑留所の管理を行った警察官たちによる扱いです。

ダーチャさん

警察官たちは、盗みを働いていました。日本政府からは、お米や卵、肉などの食料配給がありました。でも彼らがくすねていたのです。盗人でした。私たちが裏切り者であるとの口実の元、日本政府からの配給をこっそり持ち去っていたのです。完全な横領です。


そして彼らは、「卑怯な裏切り者」と私たちをののしりました。彼らにとっては、私たちを裏切り者とみなすことで、残忍に扱うことを正当化していたのです。もちろん彼らは、上司の命令に従っていたのだと思います。やっていたことも、誰かの指示だったのだと思います。ですが、倫理観のかけらもありませんでした。


彼ら(警察官たち)はサディスティックでした。例えば、自分たちはバルコニーで食事をし、魚の頭や腐ったみかんを投げ捨てるのです。そしてお腹を空かせた子供たちが残飯に群がるのをみて嘲笑するのです。また、イタリアから手紙が届くと、私たちには手を触れさせず、わざと目の前で破り捨てるのです。これも一種の拷問です。屈辱を与えるのです。


私はこうした警察のふるまいを見て、絶対的な権力はサディズムを生み出すことを学びました。抑留所の中に限られたことではなく、人間関係においても同じことが言えます。相手に対して絶対的な権力をもつと、人間はサディスティックになるのです。

※この天白抑留所での扱いは、戦後、裁判などにかけられた公式な記録はない。一方、民間人抑留者の扱いに関しては、当時「捕虜・俘虜の人道的待遇、文民の保護を定めたジュネーブ条約を準用する」と定められており、ダーチャさんの証言が正しければ、ジュネーブ条約に違反している可能性が高い。

寛容な市民たちとの出会い

抑留所での過酷な生活。さらに1945年になると名古屋市内でも空襲が相次ぎ、生命の危険を感じるようになりました。そして5月、イタリア人抑留者たちは、山あいの旧石野村にある廣済寺へと移送されます。この寺が、終戦まで数か月間の抑留所となりました。

ダーチャさん(写真中央)たち イタリア人の抑留所となった廣済寺
今も当時の記憶をとどめる廣済寺

当時この寺には、住職一家11人が暮らしていました。その寺の一角に、イタリア人16人が抑留されたのです。この地での時間は、それまでの抑留経験とは全く異なるものでした。

ダーチャさん

廣済寺の人たちは、家族のようでした。友情と愛情で結ばれていて、私たちを敵対視した政府の政策とは真逆でした。皆、私たちの味方でした。また、本当は禁止されていたのですが、私は隠れて農家にお仕事を手伝いにいって、じゃがいもやお米をこっそりもらっていたのですが、農家の方々も私を敵扱いしませんでした。


もちろん、敵だと見なしていた人もいたと思います。プロパガンダに踊らされて、敵が襲撃してくると信じ込んでいた人もいたでしょう。ただ、日本の市民は、友人も、見ず知らずの人も、総じて私たちの味方でした。私たちを敵とは見なしていませんでした。


このことで、私は日本の皆さんの友人であり続けることができたのです。

当時交流のあった加納啓子さんと再会したダーチャさん
寺の人たちのやさしさがダーチャさんを支えた

いま、私たちへのメッセージ

これまでダーチャさんは、自分の作品の中で、抑留経験について詳しく書いたことはありませんでした。しかし、去年(2023年)出版した自伝『わたしの人生』では、そのページのほとんどを日本での抑留経験に費やしました。そして、ダーチャさんの目には敵国人抑留の歴史が忘れられていると映った日本でも、そのメッセージを伝えようと来日したのです。

ダーチャさん

傷が治った後で、わざわざ、かさぶたをはがして傷に戻すことはしませんよね。傷口を再び開くことは、痛みを伴いますから。でも、世界を巻き込む戦争が起こっている現在、証言しておかなければならないと感じたのです。戦争を終わらせる一助になればと思いました。

来日中、各地で講演を行ったダーチャさん

ダーチャさんが見た日本の現状は、「過去の痛みに向き合っていない」ように感じられるものでした。名古屋に向かい、かつて自分がいた抑留所があった場所を訪れましたが、そこに歴史を知るための痕跡が何も残されていないのを目にしたとき、ダーチャさんは語気を強め、こう語りました。

ダーチャさん

すっかり変わってしまいました。もう何も残っていません。かつてを知るのは不可能に近いです。記憶が消去されたような気持ちです。そのことを私は深刻に受け止めています。


社会にとって記憶は不可欠だからです。未来を築くには過去を知る必要があります。過去が消去されたら、未来で同じ過ちが繰り返されてしまうかもしれません。だから、残念に思います。過去を忘れ去ってはならないと思うからです。良いことも悪いことも過去を忘れてはならない。人は自分の過去を知り、そして過去から距離を置く必要があります。過去は記憶となり、語り継がれ、自分ごととして意識されなければなりません。

天白抑留所のあった場所。抑留所の痕跡が全くないことを嘆いた

「いまなお戦争の続く世界。どうしたら分断を食い止め、過ちを繰りかえさずにいられるのか・・・」。旅の終わりに、私たちはダーチャさんに問いかけました。

ダーチャさん

私は、抑留経験を経て、人間には悪いところもたくさんあるけれど、良いところもたくさんあるという世界観を持つにいたりました。つまり、教育、宗教、倫理観を通して、人間の持つ良い側面に働きかけることができる、ということです。これこそがエゴイズムに働きかける方法なのです。人間というのは、利己的な傾向を生来備え持っているのです。でも、教育、民主主義、文化を通して、利己主義に走らず、他者と協働することを学んでいくことができるのです。


戦争というのは人間関係を「敵と味方」に分断します。交流も他者への関心も話し合いの余地も、すべてなくなります。全ては敵か味方かの二元論になってしまうのです。

戦争に替わる唯一の手段は、対話だと思います。国が違えば、国民も違い、状況も異なります。違う思想を持った人とでも対話していくことです。対話は、“折り合い”や“譲歩”を生みます。他に代替策はないと思っています。

※記事中で紹介した『Vita mia』(わたしの人生)は、11月末に日本語訳が出版予定

みんなのコメント(65件)

感想
itさとし
50代 男性
2024年9月22日
番組のコメントを見て、たすかる思いです。人間の中にある、悪魔の心が出るのか、菩薩の心で生きて行くのか、だれもが持ってる心、この心との戦いに勝てば、平和を維持していけるのかな、あと、世界で起きてる戦争を、自分事に、考えられれば、だって日本だって、いつ戦争になるか、わからないから
体験談
いなりやま
70歳以上 女性
2024年9月15日
日本の田舎の一般の日本人。
生き延びることを第一に。
見ざる聞かざる言わざる。
芋、芋の葉やつる、野草,
カエルやバッタで命を繋ぐ。
米粒など贅沢品。
空腹は毎日の事。
感想
50代 女性
2024年8月31日
絵本で読んだ地元の旧外国人抑留所が気になっていました。講話慰霊献花を初めて知り参加しました。自身は子供の頃に見てショックを受けた傷痍軍人について調べています。開国以来、外国人と交流が有った土地の一山超えた静かな里山に、日本を愛した人達が家族を思い、自分だけの帰国を見送った事で抑留された事実に戦禍の不条理を思いました。同盟国で有った国の兵士は箱根で手厚い待遇を受けていた事との対比戦後80年を前に、映像記録を残しておく大切さや、隠す様な場所に捕虜として閉じ込め、隠匿された様々を知る重要性を思いました。元抑留所の息子さんお孫さんが話す、父や祖父の苦難は、不自由無く生まれ育った人が突然囚われの身となり亡くなられたり、非人道的扱いを受けた血族故の憤りや切なさ、日本人でも大変だった戦後を生きのび家族を残された等、前の代の方々の生きた時代を再認識しました。
貴重な番組を、有り難うございました。
提言
未来
50代 男性
2024年8月30日
偏見報道さんへ かなり前になりますが日本軍と戦う日系人部隊の番組があった覚えがあります。たしか224部隊?参考までに。
感想
ノリコ
60代 女性
2024年8月28日
記事に感銘を受け、共感しました。
日本語版を心待ちにしています。
感想
石井晴喜 本名
70歳以上 男性
2024年8月28日
放映ありがとう、74年間知らなかった、国はなにかしてきたんでしょうか?今年ブラジルも戦時中の日系人対応に謝罪したのに。今後も国の対応の取材宜しくお願いします。
感想
TETSU
50代 男性
2024年8月28日
番組を観て衝撃的でした。でも普通に考えたら連合国で同じ事をされてるんだから日本にいる外国人も同じ事になるなと思いました。でも恐ろしいのはそれを知らなかったこと。日本は沖縄戦や原爆の悲劇だけを語り継いでいるけど、真珠湾攻撃やこのような事実も同時に伝え残す義務があると思います。
感想
あしゅら
70歳以上 女性
2024年8月28日
戦争の危機が迫っていると思えるような今こそ知らなければならない歴史の事実です。私も初めて知りました。NHK のスタッフの皆さんありがとうございます。マスコミがマスゴミと言われている現状のなかこうした番組を作り続けてくださるみなさにエールと感謝を送ります
感想
ライムスター
60代 男性
2024年8月28日
シベリア抑留について毎年しっかりと特集番組をやっているうえで、今回の番組企画があるのならよいがそうではないのにことさら日本での抑留を取り上げるのはバランスに欠ける。
中国人に番組を乗っ取られても平気なスタンスからこうなるのか?
感想
敬  70代後半
男性
2024年8月28日
自身の記憶にはありませんが、残留孤児になる事なく帰国出来た過去、、、
多々の事象の継承が受けつがらず、忘却され価値観が変化の中で拝読の記事
其々の経験を通じて、次世代の主役や若人に語り継ぐ事の大切さを感じさせて頂きました。
この記事のコメント投稿フォームからみなさんの声をお待ちしています。