「自分は深い解釈ができていない」でもあなたの作品も選択の幅のひとつ/カレー沢薫の創作相談
深い解釈の作品をつくれなくてもいいのだろうか
我々がなんらかのジャンルにファンとして参入する時、ごく稀に自分が最初の一人、もしくは自分以外が全員去ったラストマンスタンティング、ということもありますが、大体他にも住人がいるものです。
彼ら彼女らは同じものを愛する同志であり、同志の数が多いほど、公式、二次ともに豊かな供給が得られるというメリットがあります。
しかし、人口が多くなると、ファン歴が長い方が偉い、金を使っている方がすごい、アクキーをたくさん持ってる方が強い、キャラのエロい絵を描ける方が尊い、などの序列が生まれ、そこから戦争に発展することもあります。
推しや推しジャンルという国王と全く関係ないことで国民同士が争っている国に未来はありません。
このようにファンに上下をつけるのは滅亡の始まりですが、逆に「左右」は、あったほうが国は繁栄するものです。
左右とは「幅」であり「いろんな人がいろんな役割を担っている」という状態です。
あなたの感嘆が考察界を盛り上げる
それと同じように、優れた考察や解釈というのは、あなたのように「その発想はなかったわ、すげ〜!!ホゲ〜!!」と素直に感心する人間がいて初めて優れた考察として完成するのです。
あなたの作品も「選択の幅」のひとつ
そして、創作者として深い考察や解釈をしないままで良いのか、というお悩みについてですが、それこそ受けが「俺は受けてばかりでいいのか、攻めた方がいいんじゃないか」と悩んでいるようなものだと思います。
受けには受けの重要な役割があるように「深い考察や解釈をしないで書かれた作品」も必要なのです。
難しい作品を理解し面白さを感じるには、見る側にも相応の知識や理解力が必要だったりします。
同様に二次創作も深い考察により書かれた作品の良さを理解するには、それなりに原作に詳しくなければいけなかったりするのですが、読み手が全員原作を熟読して「お手並み拝見」とか言いながらpixiv巡回している訳ではありません。
キャラが公式プロフィールに書いてある好物のバナナを食ってるだけの作品を見たい人にとって「彼が好むバナナとはなんのメタファーなのか」のような作品はどれだけ考察が優れていても求めるものではないのです。
おそらくあなたの書くもの深い考察をしていない分ライトファンでもわかりやすい内容になっていると思いますし、原作にない自己解釈を入れていない分、二次創作といえども原作に忠実な方が良いという読者にはむしろ好まれるのではないかと思います。
つまり、深い考察や斬新な解釈の創作と、深く掘り下げすぎてない創作はどちらもそれぞれ良いところと需要があり、どちらが優れているというものではありません。
読み手としては好みや気分によって選べるので両方あった方が良いのです。
「今日は細かいことはどうでもいいからひたすら推しのエロいところが見たい」という時に「バナナとは男根のメタファーなのではないか」という考察ばかりでリアル男根が一向に出てこない作品しか見当たらない、というのは困りものなのです。
よってあなたの作品も読み手の「選択の幅」のひとつとして重要なので、ジャンルの幅を狭めないためにもそのままの作風で書き続けても良いのではないでしょうか。
芸術の世界にも、見たままの世界をそのまま描く手法もあれば、内面の世界を描き出すものもあります。それは流派の違いであり、どちらが優れているというものではありません。
ただ「作風」が違うだけであり、いろんな作風がいた方がジャンル的には良いのです。
今後は、自分の作品を「浅い」などとは言わず「原作にははっきりと書かれていな内側にあるものを投影して描く象徴主義に対し、自分は原作を見たままに描き出す写実主義である」と名乗りましょう
こんにちは、いつも楽しく記事を読ませていただいています、ようやくR18が読めるようになった腐女子です。
早速相談ですが、私は字書き(たまに絵描き)です。色んな界隈にいますが、どの界隈にも沢山の人がいます。その人達のツイートとか作品を読んでいると、皆こんな解釈できてすごいなぁ、とか、えっ、こことここが兄弟っていう予想!?しかもすごい根拠ある!などと震えてしまいます。私は公式情報を「へぇ」で流してしまうタイプです。そこから解釈を広げたり、他キャラの関係性を関連付けて考えることができません。
別にやるべきことではないのはわかりますが、創作者としてどうなのかなと焦ってしまいます……。
つまり言いたいことは、「解釈や考察をする人が周りに沢山いるけど、自分はそこまで手を伸ばせずこれでいいのかと思っている」ということです。
既出の質問だったら申し訳ありません、良ければ回答お願いします!