「飛脚」は爆走する配達人!? 江戸から京都まで3~4日で荷物が届く謎
「歴史人」こぼれ話・第38回
現代のように自動車や電車、飛行機がなかった江戸時代において、手紙や荷物を運送するための手段は人の脚だけだった。運送業を担った「飛脚」の仕事とは一体どのようなシステムで行われていたのだろうか?
■江戸の郵便・配送事業を担った飛脚
江戸時代は明治時代のように国営事業としての郵便制度はなかったものの、民営事業としての飛脚(ひきゃく)制度は相当発達していた。それまでの時代に比べると、泰平の世を背景に交通の安全が保障されていたことは実に大きかった。
飛脚とは急用を知らせる使いのことであり、手紙や荷物を届けることを任務とした。既に鎌倉時代から京都・鎌倉を結ぶ鎌倉飛脚などがあったが、これは公用に限られた。民間も利用できる飛脚制度が整備されたのは江戸時代に入ってからである。
江戸の飛脚には3種類あった。公用飛脚(継飛脚ともいう)、大名飛脚、そして町飛脚の3つだ。公用飛脚は幕府が直接運営した飛脚であり、重要な公文書などを京都所司代や大坂城代、各地の遠国奉行などに運んだ。その逆もあった。公用飛脚では、幕府が五街道などで整備した宿駅制度がフルに活用されている。つまり、一人の飛脚が目的地に向かうのではなく、各宿場に配置された飛脚がリレー方式で手紙や荷物を届けたのである。一人あたり10kmほどを走っただけであり、江戸・京都を3~4日で結ぶことができた。
大名飛脚は公用飛脚のシステムに習って、各大名が江戸藩邸と国元、西国大名の場合は国元のほか大坂蔵屋敷との連絡用に設けた飛脚である。江戸・国元間の街道の七里ごとに飛脚を配置して、手紙や荷物の運送にあたらせた七里飛脚が知られている。
だが、すべての大名が飛脚を設けたわけではない。尾張・紀州藩などの大藩に限られたのが実態だった。そして、飛脚制度を維持するために要した人件費などは藩財政にとって大きな負担であった。よって、各藩レベルで飛脚制度を維持することは次第に難しくなり、次に取り上げる町飛脚に委託するケースが増えていく。
民営事業である町飛脚の場合は、人ではなく馬に積んで運ぶのが通例である。宰領(さいりょう)と呼ばれた者が手紙や荷物を預かり、馬に乗って運んだ。馬は宿場で借り、馬方(うまかた)に引かせた。宿場に着くと馬と馬方を代えて次の宿場へと進んだが、それだけ手紙や荷物を多く運べたと言えるだろう。
つまり、飛脚の一般的なイメ―ジである「半裸のような格好で荷物入りの箱を肩に担いで走った」というのは公用飛脚や大名飛脚に限られた。公用・大名飛脚の場合は、手紙も荷物も人が運ぶのが原則だったからである。
一方、庶民が利用した町飛脚については、江戸時代の社会風俗書として知られる喜田川守貞(きたがわもりさだ)の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に「飛脚屋」として4種類が取り上げられている。並便、十日限、六日限(早便り)、四日限仕立飛脚の4つである。
並便は、江戸と京都・大坂の間を30日かけて手紙を届けた。ただし、町飛脚は宿場で馬を乗り継ぐスタイルだったが、宿場で馬が空いている時に借りて乗り継いだため、30日で届けられるとは限らなかった。いわゆる定期便ではなく、手紙がある程度集まると、飛脚を出発させたのだろう。いつ到着するかも、その時次第という不定期なものであったが、そのぶん料金は到着期日を請け合った十日限などよりも安かった。なお、昼は馬に乗って手紙を運んだが、夜は運ばなかった。
十日限、六日限は10日、6日で届けると約束した飛脚だが、2~3日遅れることもあった。料金だが、十日限は並便よりも高く、六日限は十日限よりも高かった。十日限、六日限の場合は並便とは違って、昼も夜も馬で運んだ。
四日限仕立飛脚は定期便ではなく、臨時に仕立てられた飛脚であった。公用飛脚と同じく飛脚がリレー方式で手紙を届けた。料金は4両掛かったという。現代の貨幣価値に換算すると、数十万円ぐらいになるのだろう。
庶民が利用する場合は並便となるが、その料金は残念ながらよく分からない。距離にもよるだろうが、1,000円前後といったところではないか。今で言う速達便にあたる十日限、六日限となれば、その数倍に跳ね上がる。
このように、飛脚の料金は、庶民にとっては決して安価なものではなかった。そのため、手紙を出したい人が住んでいる地域に行く人に言付ける形で、手紙を届けてくれるよう託すのが通例だった。いわゆる「幸便(こうびん)」である。