近代戦にふさわしい科学的名提督と評された連合艦隊司令長官・小澤治三郎の人生とその生家
小澤治三郎邸の宿泊券がふるさと納税「返礼品」に
■優秀な人材の宝庫・高鍋の至宝誕生

小澤治三郎(近現代フォトライブラリー提供)
昭和53年(1978)11月9日、小澤治三郎(おざわじさぶろう)提督の十三回忌に合わせ、東京の東郷神社(とうごうじんじゃ)となりの水交社(すいこうしゃ)で「小澤提督を偲ぶ会」が開かれた。100人近くの参加者には、ほかの提督の会には姿を見せない旧海軍の下士官や兵、さらには犬猿の仲であった旧陸軍の将校たちの姿が、多く見られた。生前、どんな立場の人でも分け隔てなく接し、真摯に対応した小澤提督の人となりが伝わる光景であったという。
小澤治三郎は明治19年(1886)10月2日、宮崎県児湯郡高鍋町で、元高鍋藩士の小澤寅太郎・ヤツ夫妻の次男として生まれる。高鍋藩は、代々秋月家が治めていた。江戸時代中期、6代秋月種美(あきづきたねみつ)の次男は、財政破綻寸前の米沢藩に養子として入り、見事に藩を救った名君・上杉鷹山(うえすぎようざん)である。その兄の7代高鍋藩主・秋月種茂(たねしげ)も名君として知られ、「明倫堂」(めいりんどう)という藩校を建てている。ここは武士だけでなく、町民や農民も学べたのである。このように高鍋藩は、優秀な人材が輩出される環境にあった。

小澤治三郎邸
そんな高鍋という地に育まれた治三郎は、少年時代から柔道にいそしみ、その実力は教師を含み近隣では敵なしと言われるほどであった。だが宮崎中学校(現・県立宮崎大宮高校)に在籍中、言いがかりをつけてきたチンピラを、得意の柔道技で橋の下まで投げ飛ばしてしまう。これが暴力沙汰と見なされてしまい、退学処分となってしまったのである。
失意の中にいた治三郎に、陸軍の軍人となっていた兄の宇一郎の上官である牛島貞雄(うしじまさだお)大尉(後の中将)が、日露戦争中の満州から手紙を送ってくれた。そこには「過ちをあらたむるに憚(はばか)る事勿(ことなか)れ」と記されていた。これをきっかけに治三郎は立ち直り、上京。明治38年(1905)に、成城中学校に転入した。治三郎はこの手紙を終生大切にしていた。
■海軍内で次第にその存在感を発揮する
治三郎は東京でも武勇伝を残している。ある日神楽坂を歩いていると、後に「柔道の神様」と呼ばれた三船久蔵(みふねきゅうぞう)に喧嘩を売られてしまう。相手にしないでいると組みついてきたので、無言でねじ伏せ背中を下駄で歩いてやった。現在、ふたりの墓所が鎌倉市内の霊園にあるのも、何かの因縁なのかも知れない。
明治39年(1906)、成城中学を卒業した治三郎は、従兄の勧めに従い鹿児島の第七高等学校と江田島の海軍兵学校を受験。4月に第七高等学校に進学するも、兵学校合格の知らせを受け退学。11月から海軍兵学校37期生となった。同期に井上成美(いのうえしげよし)大将、草鹿任一(くさかじんいち)中将、大河内伝七(おおこうちでんじろう)中将、桑原虎雄(くわばらとらお)中将らがいる。
明治42年(1909)に兵学校を卒業。治三郎の入学当時の成績は183人中150番あたりだったが、卒業時には179人中45番まで前進している。これだけでも、治三郎が大変な努力家であることが伺えるだろう。
少尉候補生となって乗り込んだのは、巡洋艦「宗谷」(そうや)であった。艦長は後に首相を務める鈴木貫太郎、候補生の指導を担当していたのが山本五十六(やまもといそろく)大尉と古賀峯一(こがみねいち)中尉という、後の連合艦隊司令長官コンビであった。

山本五十六(国立国会図書館蔵)
明治43年(1910)1月、遠洋航海に向かう前に「宗谷」乗組の候補生は、皇居で明治天皇に拝謁(えっけん)する。帰国後の12月15日に少尉に任官、装甲巡洋艦「春日」(かすが)に乗り組んだところから、正式な海軍軍人のキャリアが始まった。それとともに砲術学校普通科学生、水雷学校普通科学生を経て、大正元年(1912)8月に中尉に任官。大正4年(1915)2月に横須賀海兵団付となり、同年12月に大尉に昇進。戦艦「河内」(かわち)分隊長となる。翌年には海軍大学校乙種学生となった。
大正6年(1917)8月、同郷の高鍋藩士族森氏の四女・石蕗と結婚する。このとき、治三郎には他にも良縁と思われる女性がいて、本人も選びきれなかった。そのため一本の箸を立て、倒れた方角で石蕗女に決めたという。
■手腕と人望を買われ重要な地位を歴任
太平洋戦争が始まる前まで第一航空戦隊司令官を務め、後に連合艦隊の主力となった機動部隊を育てた。開戦時は南遣艦隊司令長官を務め、陸軍のマレー半島上陸作戦を支援、成功に導いている。さらに麾下の第22航空戦隊が、英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する殊勲を挙げた。
だが戦争終盤は、貧乏くじを引き続けることになってしまう。昭和19年(1944)3月、南雲忠一中将の後任として第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官に就任。同年6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦時には第三艦隊を率いて出撃。マリアナ沖海戦ではアウトレンジ戦法という画期的な航空戦法を採用するが、失敗に終わる。レイテ沖海戦では機動部隊はその能力を失っており、囮部隊としての役割となった。だがこの作戦は、戦後になり相手国のアメリカから高く評価される。
昭和20年(1945)5月、米内光政海軍大臣たっての希望で、最後の連合艦隊司令長官に就任する。この時、海軍大将昇進を打診されたが辞退している。そして終戦時の混乱を、見事に収めたのであった。
昭和41年(1966)11月9日に亡くなった際、アメリカの戦史研究家サミュエル・モリソンから花束とともに「近代戦にふさわしい科学的リーダーシップをそなえた名提督」というメッセージが贈られた。この言葉が、小澤治三郎という提督のすべてを表している。

【小澤治三郎 略歴】
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最後の連合艦隊長官「小澤治三郎提督」の生家を宿泊施設にリノベーション。1日1組限定、一棟貸切にて利用できる。
小澤治三郎邸内観
小澤治三郎邸外観
■歴史の町・高鍋町に残る、築150年の生家
地域の歴史的遺産でもある築150年以上の木造2階の古民家。治三郎が暮らしていた当時の趣が感じられるような雰囲気が残っている。2階は洋室と和室の寝室があり、ゆったりした時間を味わうことができる。
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文/野田伊豆守