【Mummy-D×KOHEI JAPAN】歴史と食と自然が融合した麗しの街を訪ね歩く 大阪・泉州エリアの魅力を再発見!
Mummy-D&KOHEI JAPANの遠い目症候群#06
ヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」の兄・Mummy-Dと、「MELLOW YELLOW(メローイエロー)」の弟・KOHEI JAPAN。2人は共に音楽シーンで活躍する一方で、大の歴史好き。今回は、大阪・泉州を舞台に、歴史と文化、食、自然などあらゆる角度からその魅力を徹底レポートしていきます!
■遠い目探検隊ついに関西上陸!
(by Mummy-D)
本企画もこれで第6回目。今まで編集部のある東京近郊を中心にゆるゆると散策を続けてまいりましたが、今回はなんと!KIX泉州ツーリズムビューロー様とのコラボレーション企画により、我ら遠い目探検隊はついに関西に初上陸したのでありました。ヨイショーッ!!!
現在の大阪府は旧国名で言うと摂津国、河内国、和泉国に分かれるのですが、その和泉国の部分、要するに大阪府南部を弾丸で、味わい尽くしてしまおうと言うのが今回の旅の趣旨であります。地図で言うと、堺市より南側の大阪湾寄りの部分。関空があるあたりって言えばわかりやすいかなあ? 自分にとってはツアーなんかでよく通り過ぎたりはするんだけど、なかなかゆっくり見て回ったことのない地域。あれだよね? だんじりで有名な岸和田なんかがあるところでしょ? 程度のぼんやりとした認識でしたが(ゴメンネ♡)歩いてみると何とも温暖でゆったりとした時間の流れる、いい場所だったなあ…ありがとう、泉州。センシューベリーマッチ。おっと、遠い目するのはまだ早いのであった(笑)それでは行ってみよー!
■織田信長・紀州攻めの道を歩く
(by Mummy-D)
早朝に羽田を飛び立ち、関西国際空港に降り立ったわたくしたち。前乗りのスタッフたちとの合流地点は恋人たちの聖地、泉南マーブルビーチ、ハートのモニュメントなのであった。なんでやねん!(笑)まあ、でもこの海の近さは大阪の中でも泉州の特徴的なところだから、ぴったしっちゃぴったしか。「Always with you」とある。なんせコイツ(KOHEI JAPAN)とはオレの人生54年中53年を共にして来ているのだ。そう、年子なのである。以上、無用のことながら。さあ、街道をゆこう。
そうなんです。今年からテーマを「旧街道、古道」に改めた本企画、五街道の起点たる日本橋をテーマに散策した後にいきなり関西に飛んで目指したのは、紀州街道(旧熊野街道)なのでありました。と言っても泉州および紀州の方以外にはあまり馴染みがないかもしれませんが要するに、大阪と和歌山を結ぶ道なのであった。古くは熊野神社を目指す古道、近世からは紀州徳川家が参勤交代に利用するため整備された街道筋なのでした。
今回僕らが歩いて回ったのはそのうちの泉南市に位置する信達宿。「しんだち」と読みます。本陣そばに降り立つと、何やらすでに旧街道の香りがぷんぷんします。こんなん昔は気づかなかったのになあ、ある種の道幅や旧家や商家、漆喰の塗り壁やお寺の山門の向きなんかでピンとくるようになってしまいました。「いやー、これこれ!これなんだよなあ。お江戸日本橋もいいけどやっぱりこんな鄙びた風情ある…」などと言いかけたところで「ビュン!」軽トラックに轢かれかけました(笑)そうなんです、この紀州街道、未だに地元の方々の大動脈として現役なので交通量結構多いのであった。歩道もないので気をつけながら路傍の石碑に想いを馳せる、「街道をゆく」には、そんなテクニックも必要なのであった。
その中心に位置する信達宿本陣跡、角谷(つのや)家。今も立派な長屋門が残されていますが、向かって左の住居部分には昭和29年まで紀州の殿様が入るための御成門が残されていたそうな。ということはあの暴れん坊将軍も通ったのか? えっ? マツケンも?(←話飛びすぎw)
その斜向かいの角には文政期から残る常夜灯が並んでいるのですが、驚くことに平成4年まで地域の持ち回りで実際に夜になると蝋燭に火が灯されていたんだそうな。さらに驚くべきことに、昼だから一行誰も気づかなかったけど、現在では電気で自動点灯できるように魔改造が施されているのであった!マジか!(笑)しかしおかげで現在でも現役で街道を行き交う人々の足元を照らし続けているんだから、これはこれでスゴイことよね。そしてまさしくその辻で、天正5年(1577)2月22日、当時石山本願寺との長い戦いの最中にあった織田信長は、本願寺側の支援勢力、紀州の鉄砲傭兵、僧兵集団であった雑賀(さいか)衆と根来(ねごろ)衆を殲滅するため、軍を二手に分けたのでした。
■信長ゆかりの波太神社を訪ねて
(by Mummy-D)
信達で織田信忠、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀など雑賀衆を目指す浜手(信長街道)と、佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重、別所長治など根来衆を目指す山手(旧熊野街道)に分かれた紀州攻め軍勢、信長自身は浜手淡輪(たんのわ)まで進軍したのち、ちょうどその二手を統括できる波太神社(はたじんじゃ・阪南市石田)まで本陣を戻したとの記述が「信長公記」に見られます。根来衆と雑賀衆の分断に成功した信長は、雑賀衆との和睦を成立させ、天正5年(1577)3月27日、安土城に凱旋しました。石山合戦終結の3年前のことです。
さて、ワゴン車に揺られて波太神社に着いたわたくしども。平日午前ということもあり境内は何の商売っ気もなくひっそりとしていますが、神域に誘う太鼓橋が印象的な参道に、古色蒼然とした風格あり。ああ、ここで本当に信長が一夜を過ごしたんだなあ、オレもさあ…などと遠い目になりかけたところで神社を取り囲む石柱の垣根(「玉垣」というんだそうな)にたくさんの根来さんたちのお名前を発見!おおお!健在なのね根来姓。こんなの見つけるだけで嬉しくなっちゃってニヤケちゃうんだから、歴史好きってはたから見たらやっぱちょっとKI・MO・Iカモ♡。本能寺の変後の天正13年(1585)の秀吉による紀州攻めの時は、波太神社は根来寺方だと見なされ焼き討ち、全焼しているらしく、強大な勢力の狭間で難しい舵取りを強いられた、当地のご先祖様たちの苦労が偲ばれます。遠い目。。。
参道から本殿方向を望む。江戸初期の意匠である三間社流造(さんげんしゃながれつくり)の特徴をよく残し、しかも望楼らしき櫓を乗せたハンサムな社殿(重文)に感動するのだが、どことなく違和感が…んんん?なんと当社の本殿、参道に向かってやや斜に構える形で建っているのです!いや、本殿に向かって山道が斜についているというべきか。今までいっぱい神社仏閣見てきたけど、このビミョーな角度はあんまし見たことがないなあ。しかも地形的制約とかはあまり感じられず、とにかく理由が全然わからない(笑)誰か知ってる人教えて。そうかあ、ハンサムというよりはニヒルなスタンスなんだな。納得納得(←しねえよ!w)
ちなみに本殿中央に立っている灯籠は秀吉による焼き討ちの後、その子秀頼により再建されたときに奉行として普請に当たった片桐且元の寄進だと伝わっており、慶長5年(1600)の銘がいまだにくっきりと見て取れます。天下分け目のあの年です。遠い目です。。。
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