昭和のおばちゃんがくれた「愛の種」
私の歌の原点は、やはり昭和の風景の中にあるのだと思います。「昭和の子」という歌も作ったんですよ。当時を思い出すとたまらなく楽しいですね。
子供の頃は、東京・中野で木造2階建てのアパートに住んでいました。お風呂はないし、トイレも共同という時代。父は戦後、ジャズのサックス奏者として演奏に多忙で、週2日ぐらいしか帰ってこられなかったのですが、東京の下町生まれの母は社交的で、アパートの他の部屋のおばちゃんたちと仲良く楽しい日々を過ごしていました。
豊かではなかったけれど皆温かく、子供を見れば「おなか、すいてない?」とおにぎりをくれた。親だけではなく周りの大人からも愛された記憶が残っているから、私もおなかをすかせた子供がいたら「大丈夫?」と声をかけられる大人になろうと思いながら育ちました。
もしも私の音楽が温かいといわれているのなら、そういう影響がなかったとはいえないでしょう。
今、戦争や災害で子供たちが泣いている姿を見ると胸が痛みます。
本来、あの頃のように肩を寄せ合い、愛し合い、皆で仲良く生きていこうという方向に進むのが正しいはずです。ところが、あいつが悪いから自分が不幸なんだと考える「憎しみの種」のほうが増えています。
だから私、1人で「あいのたね♥まこう!」というキャンペーンをやっています。昭和のおばちゃんたちが、私の心に「愛の種」をまいてくれたように、私も1粒の愛の種をまいてからあの世へ行きたい。
昭和の精神は令和のミュージシャンにも
今の日本の軽音楽の原点も昭和の学生運動が盛んだった頃にあるといえます。当時、私より3歳年上の夫や彼の友人らは学生運動ではなく、フォークソングで日本のカルチャーに革命を起こそうと夢を語り合っていました。
「日本のフォークを盛り上げるぞ!」。大人よりもっと大きなことをしてやるぞと気勢を上げる彼らは、幕末の志士みたいでした。
実際に、彼らは旧弊な興行のしきたりと決別し自らの手でコンサートを開き、ミュージシャン本位のレコード会社を起こし、日本の音楽や興行の世界を変えることに成功したのだと私は誇りに思っています。
「自分たちの文化は自分たちの手でつくることができる」。昭和の彼らが示した精神は、インターネットを駆使して従来では考えられなかったルートで世に出てきている令和の若いミュージシャンたちに引き継がれているのだと私は感じています。
だから私は、若いミュージシャンを見ると「自分たちのやりたいことをどんどんやれ!」って応援したくなります。
私もまだ引退は考えられません。歌えなくなったらエッセーを書いたり絵を描いたり、自分の気持ちの表現は死ぬ1時間前までやめません。「これから私は天国に行くかもしれません」と実況中継ぐらいやるかもしれないですね。(石井健)