日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)が第29回国民体育大会の茨城県開催を正式決定したのは、昭和46年6月。3年後の本番までに解決すべき課題が、水戸市内への本格的な都市型ホテルの設置だった。
開会式にご臨席になる天皇、皇后両陛下のための宿泊施設が県都にはなかった。同市三の丸の旧市役所跡地へ水戸京成ホテルの建設を決めたのは京成電鉄社長の川崎千春と、三井不動産社長の江戸英雄だったとされる。ともに明治36(1903)年生まれで、旧制水戸高校卒業生。2人は東京ディズニーランドの〝生みの親〟でもある。
山方商業(現常陸大宮高校)の3年だった小口弘之は国体前年の48年、水戸京成ホテルの求人募集に迷いなく応じた。高校ではバドミントンに打ち込んだが、就職先を「事務や営業系の仕事より、サービス関係に」と考えていた。
大学や短大、高校を卒業した約70人の新入社員は、建設中のホテル隣のビルを借りて行われた研修で、接客業などを一から学んだ。
食堂で実地研修
調理スタッフとして入社した二木真人は北海道函館市出身。高卒後、東京の有名ホテルで5年間腕を磨き、フレンチレストランに転職後、ホテル時代の先輩から水戸京成ホテルへ誘われた。茨城とは縁もゆかりもなかったが、「新しいところでやらせてもらえるのは面白い」と応じた。
水戸市赤塚にあった水戸京成百貨店の女子寮の食堂を使い、小口ら新入社員のお客への食事サービスの実地研修も行われた。
プラッター(楕円形の大皿)に盛り付けた肉や魚、ハンバーグなどのおかずをお客に見せてからサーバーと呼ばれる大きなフォークやスプーンで個々の皿へ取り分ける。本格的な洋食をあまり食べたことも、給仕の経験もない新入社員らは技術の取得に苦労した。
スープに見立てたみそ汁をチューリンという器に入れ、レードル(お玉)ですくってスープ皿に注ぐ練習もした。そうした食事などは二木らが用意した。
国体開幕の約1カ月前、「陛下のお食事を作れ」と命じられたのは二木だった。
腕の見せどころが…
11階建て、地下1階でスイートルームやレストラン、宴会場なども備えた水戸京成ホテルのオープンは49年9月。天皇、皇后両陛下がご到着になったのは開会式前日の10月19日夕で、ホテル従業員が総出で出迎えた。
夕食のメニューについてはホテル側と宮内庁とのやり取りが繰り返され、メーンディッシュは魚のムニエルと決まった。フレンチが本職の二木にとっては腕の見せどころだったが、調理場では宮内庁職員が立ち会い、マスク着用も義務付けられて味見はできなかった。
緊張の連続だったが、翌20日朝、ジャムサンドの注文があり、二木は「こうした甘いものも召し上がるのだな」と丁寧にお作りした。ご出発を全従業員で見送り、「何事もなく本当によかった」とようやく肩の力が抜けた。
その後、総料理長を務めた二木は現在、75歳。「ホテルのオープンから担当したのはすごくいい経験だった。何より国体で、24歳で陛下の料理を作らせていただけたのはありがたいこと」と感謝する。
総支配人も経験した小口は69歳となった。ホテルで茨城県産の食材をコースで提供するなど〝地産地消〟の推進にも尽力。「おかげで食に関して知識が広まった」と現在は常陸大宮市でブルーベリー農園を営む。
国民スポーツ大会(旧国体)の在り方について、二木は「経費がかかり過ぎてはメリットはない。もっと広域で開催してもいいのでは」。小口も「大会は大勢の人が動き、観光資源にもなる。競技ごとに分散させることも検討しては」とともに1都道府県の開催にはこだわるべきでないとする。(敬称略)