Mind Journal

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考えるヒント

考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事たろう。

(小林秀雄「考えるヒント」文春文庫刊)

  • 注1 馬鹿気た(ばかげた)
  • 注2 積り(つもり)
  • 注3 到る処(いたるところ)
  • 注4 掴んだら(つかんだら)

(問い「これ」は何をさしているか。

  1. 考えているつもりだが、考える手間を省いていること
  2. 対象を手でつかんで離さないようにすること
  3. 考えれば考えるほどわからなくなること
  4. 合理的に考える人にとって困難なこと

目玉の学校

(前略)鏡を見ると自分の顔があり、その顔がじっとこちらを見ている。それがどうも嫌だ。(中略) 考えたら変なことで、鏡の自分にじっと見られるということは、それをじっと見ているということでもある。だから見ると見られるということは等価な(注)はずなのに、見られているということの方に強く迫られてしまうのだ。 たんに気が弱いということかもしれないが、どうも鏡に映る自分というのは、自分であっても他人なのではないかと思う。だから鏡に対面するのが嫌で、どうも鏡面には自と他の境界線があるらしいのだ。

(赤瀬川原平『目玉の学校』ちくまプリマー新書による)

(注)等価な:価値が同じである

筆者が鏡の自分を見るのが嫌なのはなぜか。

  1. 鏡に映る自分を他人に見られてしまうから。
  2. 鏡の中の自分が変に見えるから。
  3. 鏡に映る自分に見られていると意識するから。
  4. 鏡の中の自分が他人に見えてくるから。

迷子の自由

人間は案外、機械と似ている。機械屋の娘だからなのかどうか分からないが、私は常々そう思っている。 よく「人間は機械じゃない!」といって、人間を機械のように酷使する会社のシステムを非難する人がいるが、私はその言い分に違和感を覚える。 機械はガソリンや電気が切れれば動かなくなるし、落としたり倒したりすれば壊れる。古くなければ動きが遅くなるし、出来ないことをやらせようとしても出来ない。酷使すれば壊れる。とても正直だ。 ところが人間は。、給料、つまり人間にとってのガソリンを減らして前より「一層よく働け」と命令し、過酷な労働を「精神性で克服せよ」と無理難題を押しつけ、「疲れた」と申し出る人には「癒せ」と鞭を打ち、休んでいる人生産性の低い人を怠け者」と非難し、そしてとうとう壊れてしまった人を「弱い」と非難する。人間が人間を人間とみなせば見なすほど、非人間性は増して行く。 人間に無限の可能性や能力や忍耐力なんて無い。出来ることは出来るし、出来ないことは出来ない。人間はもっと、機械を見習ったらどうだろう。

(星野博美「迷子の自由」による)

不可解なパズル

「全ての存在は滅びるようにデザインされている。生と死を繰り返す螺旋に・・・私達は囚われ続けている。

これは、呪いか。それとも、罰か。 不可解なパズルを渡した神にいつか、私達は弓を引くのだろうか?」

偶然は必然

世の中には「偶然は必然」という人もいるだろうし「偶然なんてただの偶然でしかない」という人もいるだろう。でもふと今まで歩いてきた道のりを振り返ると偶然は起こるべくして起きたのかもしれないと思わずにいられない。何かがあったら、その次の何かに繋がってゆくこと。たとえ、その時には嫌な経験でも、それを体験したらこそ次の新しい階段や出会いに繋がる事もある。もしくはその経験をしていなければ、その後まったく同じ物事や人出会っても、自分の心がそれを見逃し素通利してしまうかもしれない。尊敬するある人が教えてくれた。

「自分の所へやって来た出来事を、自分がきちんときゃッチできずに通り越してしまたっら、その人にとってその出来事は全く起こらなかったも同然なんだよ」

すぐにはその意味がよくわからなかったけれど、最近少しその意味が体感できるようになったきがする。

無思想の発見

筆者の考える「未知との遭遇」とはどのようなものですか 若者によくある誤解がある。知らない世界を見ることが、未知との遭遇だと思っているのである。だから「自分探し」にイラクまで行ってしまう。未知がイラクにあるのではない。「自分が同じ」だから、世界が同じに見えるのである。それで「退屈だ」なんて贅沢をいう。知らない環境に入れば、自分が変わらざるをえない。だから未知の世界は「面白い」のである。 「変わった」身分はいままでとは「違った」世界を見る。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさにいうなら、世界全体が違ってしまう。それが「面白い」。つまり「未知との遭遇」とは、本質的には新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではない。そこを誤解するから、若者はえてして自分を変えず、周囲を変えようとする。 (養老孟司『無思想の発見」筑摩書房) 1 知らない世界を見ること 2 自分の周囲の変化に気づくこと 3 世界全体の変化を感じること 4 変化した自分に出会うこと

最後の後悔

君は苦痛と苦難を知る者だ。君に・・・弱き者達を助ける意志はあるか?

「はい/いいえ」

この選択肢を選ぶと、君は世界の誰かを救うことができる。だが、代償として全ての****を失うだろう。それでも、見ず知らずの誰かを助けたいと願うか?

「はい/いいえ」

助ける相手はランダムで選ばれる。だから、その相手は・・・助けを求めている相手は君の嫌いな人間かもしれない。それでも、その誰かを助けるか?

「はい/いいえ」

君が必死で解除した****も****も使用できなくなる。それでも、助けたいと願うか?

「はい/いいえ」

君が誰かを助けても、感謝されないかもしれない。君の行いは、偽善と呼ばれるかもしれない。それでも、助けたいと願うか?

「はい/いいえ」

本当に・・・本当にそれでいいのか?

「はい/いいえ」

わかった・・・全ての****を代償として君の意志をこの世界に伝えよう。

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