ナクソス島とは? わかりやすく解説

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ナクソス‐とう〔‐タウ〕【ナクソス島】

読み方:なくそすとう

Naxos/Νάξος》ギリシャ南東部エーゲ海にある島。キクラデス諸島の中で最も大きくパロス島の東に位置する主な町ナクソス。島の中央にそびえる標高1004メートルゼウス山は同諸島中で最も高い。オリーブワイン良質な大理石産地ギリシャ神話で、テセウスの命を救ったアリアドネ置き去りにされた島として知られる


ナクソス島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/22 10:25 UTC 版)

ナクソス島
Νάξος
ナクソス島
ナクソス島の位置
ナクソス島
ナクソス島 (エーゲ海)
地理
座標 北緯37度5分 東経25度28分 / 北緯37.083度 東経25.467度 / 37.083; 25.467 
諸島 キクラデス諸島
面積 429.785 km2
行政
ギリシャ
地方 南エーゲ
ナクソス県
統計
人口 18,904人 (2011年現在)
人口密度 44 /km2

ナクソス島 (ナクソスとう、ギリシア語: Νάξος / Naxosイタリア語: Nassoトルコ語: Nakşa) は、エーゲ海中部・キクラデス諸島に属するギリシャ領の。キクラデス諸島中最大の島(面積428km2)で[1]、島の総人口は1万8904人(2011年)。

都市

島にはナクソス市とドライマリアの2つの自治体がある。最も大きく島で人口が多いのはホラで、ナクソス市と通常呼ばれ、7374人(2011年)の人口を抱える。他にフィロティ、アペラソス、アギオス・アルセニオス、コロノス、グリナドの村がある。

産業

ナクソス島は遺跡観光で人気のある島である。アギア・アンナ、アギオス・プロコピス、アリコス、カストラキ、ミクリ・ヴィグラといった美しい砂浜があり、ほとんどがホラ近郊に集中する。

ナクソスは、キクラデス諸島中地味の肥えた島である。水資源の乏しい地域の中で、水の供給に恵まれている。キクラデス諸島最高峰のザス山(999メートル)には雲が集まり、恵みの雨を降らすのである。このおかげで、畜産と同様、多種の野菜・果物生産ができ農業が経済の重要な要素となっている。ナクソスはキクラデス諸島でも自給率の高い島である。ギリシャ国内では、ジャガイモの産地として知られている

神話世界のナクソス

ギリシア神話によれば、幼いゼウスはザス山の洞穴で育てられたという。ホメーロスは、女神の聖なる島として文学的に『ディア』と記した。

ナクソス市にある神殿

トロイ戦争以前といわれる伝説がある。英雄テーセウスは、クレタ島ラビュリントスから彼を救い出し、ミーノータウロスに殺される運命だった彼を救った恩人のアリアドネーを、この島に置き去りにしたのである。祝祭と酒の神ディオニューソスは島の守護者であり、アリアドネーと出会って恋に落ちた。しかしすぐにアリアドネーは、テーセウスとの別離に耐えられず、自殺したか天へ召されたという。ナクソスは、アリアドネの伝説を参考にしたリヒャルト・シュトラウスオペラナクソス島のアリアドネ』のナクソスである。

また巨人の兄弟アローアダイが少なくとも2つの伝説となって島に残っている。その一つは、女神アルテミスが、巨人兄弟の一人オトゥスの愛人としてナクソスに住むことを条件に、アローアダイによる神々に対する包囲をやめさせた、というものである。もう一つは、兄弟が実際にナクソスに移り住んだというものである。

歴史

ナクソス蜂起

モレアにあったナクソス公国。(William R. Shepherd, Historical Atlas, 1911)

紀元前502年、ナクソスの住民たちが、当時の島の支配者ペルシャ帝国に反旗を翻した。この反乱は広範囲のイオニアの反乱のきっかけとなり、ギリシャ=ペルシャ間のペルシャ戦争を引き起こした。

ギリシャ、東ローマ時代

紀元前8世紀から7世紀にかけ、ナクソスはキクラデス諸島の貿易を一手に握っていた。

ナクソス公国

第4回十字軍の結果、ヴェネツィア共和国の影響下でコンスタンティノープルラテン帝国が樹立し、ヴェネツィア人マルコ・サヌード(ヴェネツィアの元首エンリコ・ダンドロの甥)が島を征服した。直ちに彼はキクラデス諸島の残りの島々を手中に収め、自身を君主とするナクシア、またはアーキペラゴ(群島)公国を建国した。この公国は2つの家系のもと21人の支配者を輩出し、1566年まで存続した。1714年まで、ヴェネツィア共和国がエーゲ海に浮かぶ島々を支配し続けた。

オスマン帝国支配 (1564-1821)

アギオス・プロコピスの砂浜
フィロティの町のタベルナ

オスマン帝国による島の支配は、実質的にはヴェネツィア共和国の管理のもとにあった。オスマン帝国朝廷は、税収さえ上がれば満足していたのである。わずかにオスマン人がナクソスへ移住したものの、島へ与えた影響はわずかだった。オスマン帝国の支配は、島に反乱の起きた1821年まで続いた。最終的にナクソスは1832年、ギリシャ国家の一員となったのである。

人口の推移

島の人口 増減
1981年 14,037 -
1991年 14,838 +801/+5.71%
2001年 18,188 +3,350/+22.58%
2011年 18,904 +716/+3.93%

脚注

  1. ^ 『世界の美しい階段』エクスナレッジ、2015年、162頁。ISBN 978-4-7678-2042-2 

外部リンク

座標: 北緯37度5分00秒 東経25度28分00秒 / 北緯37.08333度 東経25.46667度 / 37.08333; 25.46667



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