ライン同盟とは? わかりやすく解説

ライン‐どうめい【ライン同盟】

読み方:らいんどうめい

1806年ナポレオン保護下に結成され南西ドイツ諸国同盟。プロイセン・オーストリアに対抗するためで、加盟国最初16か国。これによって神聖ローマ帝国崩壊1813年ナポレオン没落とともに解体ライン連邦

ライン同盟の画像
ライン同盟の旗

ライン同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/30 19:50 UTC 版)

ライン同盟
Rheinbund (ドイツ語)
1806年 - 1813年
国章

ライン同盟の領域
公用語 ドイツ語
首都 フランクフルト・アム・マイン
保護者
1806年 - 1813年 ナポレオン1世(フランス皇帝)
首座大司教侯(Fürstprimas)
1806年 - 1813年ダールベルク(大司教)
変遷
成立 1806年
解体1813年
現在 オーストリア
ドイツ
イタリア
リヒテンシュタイン
ポーランド
ドイツの歴史
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ドイツ連邦共和国
1808年のライン同盟
1812年のライン同盟

ライン同盟(ラインどうめい、: Rheinbund: Confédération du Rhin)は、19世紀ドイツにおいて、フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により成立した国家連合である。ナポレオンは神聖ローマ帝国からオーストリア帝国プロイセン王国を排除し、残された全てのドイツ諸国をライン同盟として再編した。1813年に起きたライプツィヒの戦いでのナポレオンの敗退とともに解体した。ライン連邦、ライン連盟とも訳される。

概要

1806年7月12日、フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は名目だけ存続していた帝国を離脱してフランス帝国と同盟し、ライン同盟が成立した。同盟は、ナポレオンを盟主とし、マインツ大司教ダールベルクを総裁としたフランス主導の国家連合であった。

ライン同盟には、1808年の最大期には4つの王国(Königreich)、5つの大公国(Großherzogtum)、13の公国(Herzogtum)、17の侯国(Fürstentum)、3つの自由都市(Freie Stadt)が加盟していた。公式には同盟という対等の名称であるが、その実態はフランスの従属国に等しかった。国家連合内では法令は全てナポレオン法典が使用された。国家連合自体の力は脆弱で、ナポレオンに援助した総兵力はわずかに6万人ほどだったという。

1815年ウィーン会議により、ドイツにはオーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立した。

加盟諸邦

以下はアルファベット順。

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