かい‐せん〔クワイ‐〕【会戦】
会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:54 UTC 版)
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会戦(かいせん、英: pitched battle)は、陸軍部隊が比較的に大規模な戦力を準備して互いに対峙し、戦われる戦闘である。
概要
会戦は、偶然の出会いなどによって成り行きで起こることもあるが、しばしば敵を圧倒殲滅することを狙い、概ね(近代以降の軍制なら)軍以上の大規模な戦力を以て行われる戦闘である。場合によればその戦闘の前後の機動も含める。複雑な地形では会戦の形態上から戦闘展開が困難であるために、通常は野戦の形態をとる。近代以前は遭遇戦や小競り合いの対概念として考えられていたが[誰によって?]、戦闘教義、兵器などの変化・発展のために会戦の意義・頻度は低下している。
歴史
国家総力戦体制が整う近代よりも前の時代においては、国の指導者が運用可能な戦力が極めて限定的であった。そのため敵の戦力を徹底的に撃滅する性格を持つ会戦は戦争や戦役の帰趨を決める大きな戦闘であった。そのために軍事作戦は制限戦争の思想が一般的であり、軍人たちは会戦での勝利を至上目標とし、会戦を敵よりも有利な態勢で行なうための準備と駆け引きに残りの期間の努力を向けていた。
19世紀までは会戦が指揮官の視界をはるかに超えることも、また時間的にも一日の範囲を超えることはめったになかった。しかし国家総力戦の体制が整備され、参加兵力が大幅に増え、兵器開発が進み、作戦地域も拡大した第一次世界大戦から戦線が延伸し、会戦の期間は延長する傾向が顕著になり、持久戦の形態へと移行していったが、当時の大規模な戦闘は会戦として呼称されていた。
現代においては全般的に戦闘がかつての会戦よりも流動的、大規模になったために会戦の形態は殆ど見られなくなった。
戦い一覧
関連項目
会戦
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「ヒュダスペス河畔の戦い」の記事における「会戦」の解説
ポロス軍は 軍中央の第1列に戦象、軍中央第2列、軍左翼・右翼へは歩兵部隊、最左翼及び最右翼へは騎兵部隊、騎兵部隊の前列に戦車部隊とする陣立てを取った。 アレクサンドロス軍は、ポロス軍中央の戦象部隊との直接衝突を避けて、自らは騎兵部隊の一部を率いてポロス軍左翼を攻撃、転進したポロス軍左翼をアレクサンドロス率いる騎兵部隊が追撃しつつ、アレクサンドロス軍の別の騎兵部隊がポロス軍左翼の後方に回り込んで、これを包囲した。 包囲によりポロス軍左翼歩兵部隊は戦象部隊が属するポロス軍中央へと後退し、ポロス軍も中央の戦象部隊をアレクサンドロス軍騎兵部隊へと差し向けたが、待機していたアレクサンドロス軍の歩兵部隊(ファランクス)がこれを迎撃して、戦象の足及び象使いに的を絞って攻撃した。この攻撃を受けて、戦象が混乱をきたしてポロス軍、アレクサンドロス軍の陣営に関係なく暴走し、戦象の近くで戦っていたポロス軍に大きな損害が生じた。暴走した戦象は体力が尽きるのを待っていたアレクサンドロス軍歩兵部隊によって無力化された。 ポロス軍は騎兵部隊、歩兵部隊共にアレクサンドロス軍に打ち破られて退却したが、この戦いの趨勢に合わせてヒュダスペス川を渡っていたクラテロス率いるアレクサンドロス本軍が敗走するポロス軍を追討して、多くのポロス軍兵士を殺戮した。 ポロス軍はポロスの2人の息子及びスピタケスを含む兵士12,000が戦死、9,000が捕虜となり、戦車も全て破壊された。一方のアレクサンドロス軍の戦死者は歩兵4000、弓兵200であり、他に8,000名近くが戦死もしくは負傷した。ポロスは自ら戦象を操って奮戦したが、アレクサンドロス軍の捕虜となった。アレクサンドロスはポロスの降伏を受け入れて、ポロスの勇戦振りを評価して今までの所領以上の領土を与え、一帯の支配者として認めた。ポロスもアレクサンドロスのインド転戦中は数々の戦いに参戦した。
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