初代大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:10 UTC 版)
「ジュリウス・ニエレレ」の記事における「初代大統領」の解説
1962年にタンガニーカに大統領制が敷かれると、ニエレレは初代大統領に選出された。東アフリカを東アフリカ連邦(英語版)に統合する構想を掲げ、1963年12月に独立を達成したザンジバル王国が翌1964年1月のザンジバル革命によって崩壊し、新たに成立したザンジバル人民共和国のアベイド・カルメ大統領がザンジバルとタンガニーカの連邦制を申し出ると、ニエレレはこれを受けて4月にタンガニーカとザンジバルの連合国家の大統領となった。 ニエレレ治下の1960年代から1970年代にかけては1967年2月に発令されたアルーシャ宣言に基づき、タンザニアの社会主義化を進め、ザンビアのケネス・カウンダ大統領とともに結びつきを強めた中華人民共和国から戦車や戦闘機など様々な援助を与えられ、タンザン鉄道や軍事基地の建設も行われた。それまで背広姿だったニエレレは毛沢東の影響を受け、タンザニアスーツと呼ばれる中国の人民服に似た服装を愛用するようになった。同年6月には東アフリカ諸国と協力条約を締結し、タンザニアのアルーシャに東アフリカ共同体(EAC)の本部と事務局が設置された。ニエレレは初等教育や成人教育を通じての、公用語としてのスワヒリ語教育の拡充も進めた。 1975年に汎アフリカ主義とアフリカ社会主義の精神に基づいて白人国家ローデシアやアパルトヘイト体制の南アフリカ共和国と対決するボツワナ、ザンビアとフロントライン諸国(英語版)(FLS)を結成してタンザニアの大統領を退くまでニエレレは議長を務め、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を目指して南部アフリカ開発共同体(SADC)の前身である南部アフリカ開発調整会議(英語版)(SADCC)を設立させ、アフリカ諸国の反政府ゲリラ組織に支持を与えた。 1977年、中国の支援で建設されたアマーン・スタジアム(英語版)にてTANUとザンジバルのアフロ・シラジ党(ASP)を統合してタンザニア革命党を設立した。同時期、ケニアのジョモ・ケニヤッタがタンザニアやウガンダを上回る議決権を求めたことで東アフリカ共同体は解散した。 1978年には亡命したミルトン・オボテを匿っていたことから対立していた隣国ウガンダのイディ・アミン大統領がタンザニアに侵攻するも、逆にニエレレは猛反撃して1979年にタンザニア軍がウガンダの首都カンパラにまで進撃し(タンザニア=ウガンダ戦争)、アミン体制を打倒した。アフリカの国家が武力を用いて他のアフリカの主権国家の政権を打倒したという前例のないこの行為は前年の1977年に起きたセーシェルの軍事クーデターへのニエレレの関与とあわせて、内政不干渉の原則に反するとアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)の加盟国で物議を醸したが、ニエレレはアミン体制が南アフリカの白人政権よりも大量虐殺を行っていたとして人道性を訴えた。 1980年代に入ると電気や水道などのインフラストラクチュアの崩壊に加え、トイレットペーパーや塩などの日用品さえも不足する事態に至った。このため、ニエレレは経済運営失敗の責任を取り、1985年の大統領選出馬を辞退。ザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニを後任として大統領職を辞した。
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