奥田茂造とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 奥田茂造の意味・解説 

奥田茂造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 02:06 UTC 版)

奥田 茂造(おくだ しげぞう、1886年明治19年〉5月2日[1] - 1960年昭和35年〉9月28日[2])は、日本の内務官僚三重県鈴鹿市長

経歴

三重県飯南郡櫛田村(現在の松阪市)出身。1909年(明治42年)、早稲田大学政治経済科を卒業[1]1917年大正6年)、大蔵属となり、翌年に東京府属に転じた[3]1920年(大正9年)、高等文官試験に合格[3]秋田県北秋田郡長、同山本郡長、同事務官奈良県事務官、福井県事務官を歴任し、1932年(昭和7年)に北海道庁事務官・産業部長に就任した[3]。さらに佐賀県書記官・学務部長、山口県書記官・経済部長を経て、1939年(昭和14年)より川崎市助役を務めた[1]

その後、日本屑繊維配給統制株式会社社長、日本機下屑統制株式会社社長を務め[4]1943年(昭和18年)に初代鈴鹿市長に就任した。市長は1946年(昭和21年)まで務め、その後は公職追放となった[5]

脚注

  1. ^ a b c 『早稲田大学紳士録』p.212
  2. ^ 鈴鹿市教育委員会 1989, 418頁.
  3. ^ a b c 『輓近大日本拓殖史』p.374
  4. ^ 『人事興信録』
  5. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛鈴鹿郡」。(総理庁官房監査課 編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、482頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。 
  • 早稲田大学紳士録刊行会編 『昭和十五年版 早稲田大学紳士録』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。 
  • 人事興信所編 『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。 
  • 鈴鹿市教育委員会 編 『鈴鹿市史 第3巻』鈴鹿市、1989年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9572076 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥田茂造」の関連用語

奥田茂造のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥田茂造のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの奥田茂造 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS