惟成親王とは? わかりやすく解説

惟成親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 00:01 UTC 版)

惟成親王
護聖院宮
続柄 後村上天皇第三皇子

身位 二品親王東宮
出生 不詳
死去 応永30年3月3日1423年4月13日[1]
子女 成仁王[2]
世明王
父親 後村上天皇
母親 大蔵卿局[3]
役職 大宰帥式部卿中務卿
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惟成親王(これなりしんのう)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝皇族禅僧後村上天皇第三皇子であり、長慶天皇後亀山天皇の弟と推定される。官位二品中務卿[2]。後に出家して、道号梅隠(ばいいん)、法諱祐常(ゆうじょう)という。近年の小川剛生の研究によれば、南朝末期に後亀山天皇の東宮皇太弟)に立ち、南北朝合一後に護聖院宮家を興して、その初代親王になったとする説が有力である[4]護聖院宮の項目も参照のこと。

経歴

親王宣下を蒙り、文中3年/応安7年(1374年)三品に叙されたというが[5]、具体的な経歴は不明。天授元年/永和元年(1375年)には大宰帥弘和元年/永徳元年(1381年)には式部卿であり、程なく二品中務卿に至った。元中9年/明徳3年(1392年南北朝合一の際に帰洛した南朝君臣らの中に見える「三宮、御鎧直垂[6]とは、惟成親王のことであろう。応永10年(1403年)頃までに出家[7]臨済宗法燈派に属して梅隠祐常と号する。初め鎌倉へ下向して書記の職を掌り(寿福寺か)、後に上洛して建仁寺に一時在籍したが、やがて美濃へ下向して霊薬山正法寺の信中自敬に師事し、寺内に「樵斎」を構えて隠居した[8]。応永30年(1423年3月3日薨去[1]

南朝歌壇では、自邸で探題歌会を主催した他、天授元年(1375年)の『五十番歌合』『五百番歌合』に出詠した。『新葉和歌集』には6首が入集する。

子の成仁王は南朝にて親王となり、南北朝合一後は越前国に住んでいたが、応永16年(1409年)11月に僧侶として醍醐寺の地蔵院に入室したという[9]。翌年、成仁は地蔵院の聖快の下で伝法灌頂を受けたとある(『伝法灌頂雑記』応永17年3月27日条)。その記録の中で成仁は深勝親王の弟子で杲尊親王の附弟になったと記されている。更に成仁は南朝で親王宣下を受けていたにも関わらず、後小松天皇の意向で「無官之竹園之儀」によって儀式が行われたとある。深勝・杲尊は共に常盤井宮恒明親王の子であるが、現在の『本朝皇胤紹運録』には親王宣下の事実は伝えられていない(そもそも杲尊は他史料から実在は確認できるが『本朝皇胤紹運録』には記載されていない)。このため、成仁らは南朝において親王宣下を受けた皇族で、南北朝合一後に北朝から宣下の事実を否認されたとみられる[10]

脚注

  1. ^ a b 富岡本『新葉和歌集』奥書
  2. ^ a b 東寺宝菩提院蔵『伝法灌頂雑記』応永17年3月27日条。南朝系図の中には、子として堯成王を挙げるものもあるが、これには疑問が多い。
  3. ^ 南朝系図によれば、中原師治の女の大蔵卿局(嘉喜門院大蔵卿)とされるが、もし惟成が護聖院宮であれば、その母は嘉喜門院と推定される。
  4. ^ 小川剛生「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年)
  5. ^ 南方紀伝
  6. ^ 『南山御出次第』
  7. ^ 応永10年頃に在庵普在の弟子の手で編まれた漢詩集『雲巣集』に作者として「梅隠」の名が見える。
  8. ^ 梅花無尽蔵』第6-59「樵斎記」。「樵斎」とは、のように世俗を離れた隠者の庵室という意の名称。
  9. ^ 『王と呼ばれた皇族 古代中世皇統の末流』 赤坂恒明 2020年 吉川弘文館
  10. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P164-1655.

参考文献

  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
  • 玉村竹二 『五山禅僧伝記集成』 思文閣出版、2003年、ISBN 9784784211395
  • 田代圭一 「南朝皇胤についての一考察 ―『看聞日記』応永30年2月22日条をめぐって―」(『古典遺産』第54号 古典遺産の会、2004年9月、NCID AN00353573

惟成親王

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護聖院宮」の記事における「惟成親王」の解説

詳細は「惟成親王」を参照 後村上天皇皇子にして、後亀山天皇東宮皇太弟)。母は二条師基猶子・嘉喜門院か(『満済准后日記永享3年10月28日条)。立太子時期明らかでない元中9年/明徳3年1392年10月後亀山天皇将軍足利義満提示した講和条件明徳の和約)を受諾したため、親王天皇同行して入洛し、閏10月5日神器渡御に伴い東宮位を辞退。ただ、和約一両迭立条件結局幕府によって破られたため、事実上廃太子と言えよう。明徳5年1394年2月後亀山とともに天龍寺初め義満謁見したが、その出御の儀は御幸始の体裁擬していたという。当時はまだ「護聖院宮」と呼ばれていないので、宮家創設はこれ以降である。 南朝皇胤残存史料少なさゆえに諱(実名)すら判明しないことがあるが、護聖院宮家の初代親王もその例外ではない。この問題について、旧来の通説では、江戸時代作成され南朝系図根拠として、説成親王上野宮)に比定されることが多かった。しかし近年の研究では、『看聞日記』における護聖院宮上野宮とが明確に区別されていることから、両者別人であることが森茂暁によって指摘され、さらに、『吉田家日次記(兼敦朝臣記)』応永5年1398年9月29日条に「法皇・護聖院殿 法皇御舎弟、於南朝春宮・帥宮御舎弟」とあることを発見した小川剛生によって、「護聖院殿」は後亀山皇太弟にして泰成親王帥宮)の兄に当たる惟成親王であろうとの推測なされた。惟成は応永10年1403年)頃以前出家隠棲したとみられるので、この頃には既に子の世明王護聖院宮家を継いでいたと考えねばならない

※この「惟成親王」の解説は、「護聖院宮」の解説の一部です。
「惟成親王」を含む「護聖院宮」の記事については、「護聖院宮」の概要を参照ください。

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