本庄氏について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:43 UTC 版)
後世、系図は複数創られたが、時家が本庄氏祖であるとはどの系図にも明記されなかった。それは彼の経歴が関係しているものと考えられる(庄氏本家ではない彼が児玉党を継いでしまった事とも少なからず関係する)。たとえ触れたくない真実だとしても、本庄時家が馬盗人と言う罪歴を持ってしまった事で、本庄氏(自ら)の子孫を「罪人の子孫」にしてしまった事は隠せない(『吾妻鏡』に明記されている為、隠し通せない)史実である。諸々ある『武蔵七党系図』で、家次の弟を時家ではなく、久下塚氏祖である久下塚弘定とする系図があるのも、その恥を隠す為だったと考えるのが自然の流れである。別の七党系図では、久下塚弘定は庄弘高の子息とあり、「弘」の通し名から考慮しても、「弘定は家長の子息」とする七党系図より信憑性がある。そして、時家が庄氏分家であったにもかかわらず、結果として児玉党の本宗家を継ぐ形となった事で、児玉党の系図にも色々と隠さなければならない不都合な真実が生じたとみられる。仮にも党の本宗家の領地を守護する人物=実質的に党本宗家を継いだ人物に罪歴があったのはまずかったものと見られる。その為、本庄氏祖については、曖昧で、系図によって、バラバラな記述になってしまった。罪人のレッテルを張られた時家の知名度(認知度)は、世間的に見ても、低いものである(武士にとっては盗むと言う技術も必要である事は事実である)。本庄宗正にある、全く創作された本庄氏祖の伝承を見ても、時家が本庄氏祖である事を嫌煙しているフシがある。先祖にわざわざ罪歴のある人物を選ぶ武士がいないのも当然である。
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