楊孟孫とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 楊孟孫の意味・解説 

楊孟孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 04:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

楊 孟孫(よう もうそん、生年不詳 - 511年)は、中国南北朝時代仇池氐首長。陰平王。

経歴

楊崇祖の子として生まれた。父が死去すると、陰平王として立った[1]502年南朝梁武帝により仮節・都督沙州諸軍事・平羌校尉・沙州刺史とされ、陰平王に封じられた[2]

孟孫は数万戸を擁して自立して王となり、南朝梁と通じてその軍を引き入れ、たびたび北魏に進攻した。北魏の裴宣が使者を派遣して招喩すると、孟孫はその子を派遣して洛陽の宮殿に参朝させた[3]

511年、孟孫は死去した。南朝梁の武帝により安沙将軍・北雍州刺史の位を追贈された[1]

子の楊定が陰平王の爵位を嗣いだ[1]

脚注

  1. ^ a b c 梁書』諸夷伝
  2. ^ 『南史』夷貊伝下による。『梁書』諸夷伝は「仮節・都督・沙州刺史・陰平王とされた」とする。
  3. ^ 魏書』裴宣伝



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「楊孟孫」の関連用語

楊孟孫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



楊孟孫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの楊孟孫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS