流祖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:00 UTC 版)
関口氏心の自著『柔新心流自序』によると、特に師に就かず独自の研究で関口新心流を編み出したと書かれている。 「余蚤歳より斯の術に志あり。独限師承無し」 また、『紀藩柔咄集』によると氏心 (隠居剃髪後の号から、「柔心・じゅうしん」とも呼ぶ)は幼少の頃より武芸で身をたてることを決意し、諸国修行のうち居合の始祖とされる林崎甚助から居合術、三浦義辰から組討術、長崎にてもろこしの拳法などを修行し、自らの工夫をこらし柔を大成したと伝えられる。『柔新心流自序』と『紀藩柔咄集』等の記述から、廻国修業で様々な流儀を見て、それらを参考にし独自の研究で編み出したという説が有力である。『関口新心流柔之意趣』では、他国に徘徊して教えていたと書かれている。 当初は信昌の孫、松平忠隆(加納藩主)に仕えたが、忠隆の死後は本多氏「本多政朝(姫路藩主)、本多政勝(郡山藩主)」に仕えたが出奔、大久保忠職(明石藩主)預かりとなったのち、徳川頼宣(紀州藩主)に客分として召し出された。
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