犀川事件の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/02/24 08:10 UTC 版)
1929年(昭和4年)1月7日、安八郡墨俣町(現大垣市墨俣)、結村、名森村、牧村(現安八町)、大薮町、仁木村、福束村(現輪之内町)の7町村の町村長及び役場全職員は県知事に対し辞表を提出。翌8日、これを収拾する為に県は役員を各町村に派遣する。しかし、各町村は住民が団結し、役員が各町村に入ることを阻止する。この事態に警察が出動し役員の警備にあたり、住民と一触即発の状態となる。昼頃、ついに名森村で衝突する。住民は警察車両を襲い、さらに警察が占拠した役場等を襲う。この事態に警察は愛知県警察に応援を要請し、最終的に警官は600人に及ぶ。 事態を収拾する為、各町村代表と岐阜県代表との話し合いが行なわれたが、岐阜県側は「国の決定であり、中止は不可能」の一点張りであり、話し合いは決裂する。ついに岐阜県は陸軍省に応援を要請、軍隊が鎮圧に乗り出す。 軍隊の応援もあり、警察は騒動の鎮圧に乗り出す。200名の住民が検挙され、主導者とみなされた人々は厳しい拷問を受けたという。
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