用兵評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:22 UTC 版)
「大淀」は1944年(昭和19年)3月に水上機格納庫を改装して司令部施設とした。格納庫を三段に仕切り、上段に幕僚寝室、中段に作戦室と幕僚事務室、下段に司令部付の事務室や倉庫があった。当時の連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐は大淀の司令部施設について「鉄板で仕切り防火塗料を塗っただけで気持ちの良い部屋ではなかったが広さは充分で使いやすかった」と回想している。連合艦隊長官室と参謀長室は艦橋の真下にあり、作戦室と居室の往復には露天甲板を移動する必要があった。また航海中は艦橋直下の小さな作戦室を使用していたという。碇泊中、前甲板には常に天幕がはられて長官や幕僚が休憩し、軍楽隊の演奏を聴きながら食事をとった。 艦隊指揮を行う事を専門に建造された艦すなわち指揮専用艦としては、同時期にアメリカ海軍が運用したアパラチアン級揚陸指揮艦(英語版)と同コンセプトと言える。だが艦隊旗艦としては司令部施設が狭く、マリアナ沖海戦後に連合艦隊司令部・第二艦隊・第三艦隊指揮官幕僚が集まって行われた報告および研究会は、大淀ではなく大和型戦艦の武蔵で開かれた。またレイテ沖海戦後の戦闘詳報では、用兵側から「司令部旗艦」について不満点が列挙されている。まず司令部旗艦としては攻撃力・防御力も劣り、通信能力が限定的であることから「旗艦不適トセラレアリ、中途半端ニテ何レトモツカザル存在ニナリ」と評し、司令部施設を廃して四連装魚雷発射管2基の増設を希望している。 搭載レーダーには不具合があった。レイテ沖海戦時の大淀は三式一号電波探信儀三型(13号電探)を装備していたが、最大測定距離は瑞鶴の242kmに対し、大淀は200kmであった。二式二号電波探信儀一型(第21号電探)と仮称二号電波探信儀二型(第22号電探)に関しては15.5cm主砲射撃の衝撃で故障が頻発するため使い物にならず、13号電探も無線電話・電波と混信するため測定不能となることがあった。 艦のバランスも問題となった。司令部施設の改装と共に安定性が失われ、最大速力発揮時に転舵すると傾斜15-20度に達し『相当注意ヲ要スルモノアリ』という状態になった。この傾斜になると、高角砲の揚弾機が停止することも改善を要する点だった。戦闘詳報では、次の改装時にバルジを装備して安定性を改善することを求めている。だが戦局の悪化から、根本的な解決策がとられることはなかった。
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