耶律阿保機とは? わかりやすく解説

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やりつ‐あぼき【耶律阿保機】

読み方:やりつあぼき

[872〜926]中国、遼(りょう)の初代皇帝在位916〜926。廟号(びょうごう)は太祖。唐末の907年契丹八部統一してハン位につき、のち皇帝となった。しばしば長城越えて華北侵入西方諸部族征服するとともに926年渤海国滅ぼし中国東北部からモンゴル高原支配する一大帝国とした。


耶律阿保機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/08 01:07 UTC 版)

太祖 耶律阿保機
初代皇帝
王朝
在位期間 天祐4年1月13日 - 天顕元年7月27日
907年2月27日 - 926年9月6日
都城 上京臨潢府
姓・諱 耶律億
劉億(漢名)
阿保機
安巴堅(『旧五代史』)
小字 啜里只
諡号 大聖大明神烈天皇帝
廟号 太祖
生年 咸通13年(872年
没年 天顕元年7月27日
926年9月6日
耶律撒剌的
宣簡蕭皇后
后妃 淳欽述律皇后
陵墓 祖陵
年号 神冊 : 916年 - 922年
天賛 : 922年 - 926年
天顕 : 926年

耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。

生涯

出生

契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート、Yalut)の迭剌(てつら)部出身で、耶律撒剌的宣簡皇后蕭氏のあいだの長男として咸通13年(872年)に生まれた。耶律氏は発音によっては移剌(イラ)とも呼ばれる。また天皇帝天皇王の称号も持っていた。杉山正明は、耶律阿保機が「天皇帝」を自称したことを、契丹が中国皇帝の称号を受け入れたということではなく、遊牧民族の称号「天可汗中国語版」(Tengri Khagan)の漢訳だろうと主張している[1]

伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。

耶律阿保機は初めは遙輦氏の痕徳菫可汗に仕えていた。

天祐3年(906年)に痕徳菫可汗が没すると、天祐4年(907年)正月に耶律阿保機は契丹の可汗に即位した(第1次即位)。

その後、耶律阿保機は室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の蕭轄剌・南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて「皇帝」となる。

天祐8年(911年)から諸弟の反乱が続発するが、耶律阿保機は剌葛・迭剌・寅底石・安端などを征伐して、その反乱者たちを処刑した。

契丹の建国

神冊元年2月11日916年3月17日)、耶律阿保機は新たに契丹可汗に即位し(第2次即位)、その時、国号を「キタイ=契丹」とし、元号神冊と定め、キタイ人の王朝を建国した。

太祖(耶律阿保機)は北宰相に蕭轄剌、北院夷離菫に耶律斜涅赤、南府宰相に耶律蘇、南院夷離菫に耶律迭里を任じ、国家運営を進めていく事になった。

その後、太祖(耶律阿保機)は西の突厥吐谷渾・小蕃・阻卜タングートウイグル沙陀諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長男の耶律突欲を封じて「東丹国」を作った。しかし、太祖(耶律阿保機)は、渤海との戦役からの帰路の途中で病没した。

太祖(耶律阿保機)は政治面で大きな功績を残した。契丹の国では、遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制を作り、遊牧所領内にも多くの都市を建設した。また、遊牧国家でありながら農耕国家の機構を取り入れ、漢人を積極登用し、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。

また、文化面では、漢文化を積極的に吸収し、神冊5年(920年)には大小2種からなる契丹民族独自の文字「契丹文字」を制定した。

論争

天賛3年6月18日924年7月22日)、耶律阿保機は、皇后皇太子大元帥宰相・諸部の長を召集して、「3年後、丙戌年の初秋になると、必ず帰着する所があるだろう」と述べていた[2]。実際に3年後の丙戌年(926年)初秋7月26日9月6日)、渤海遠征を終えて帰還中に扶余府で死んだ。つまり、耶律阿保機は自らの死期を正確に予知していた。北京大学教授の羅新は、耶律阿保機は、おそらく自殺したのではなかろうか、と推測している[1]

后妃

子女

  • 耶律質古

脚注

  1. ^ a b 蔡偉傑『從馬可波羅到馬戛爾尼:蒙古時代以降的內亞與中國』八旗文化、2020年9月2日、29頁。ISBN 9789865524241 
  2. ^
    六月乙酉,召皇后、皇太子、大元帥及二宰相、諸部頭等詔曰;「上天降監,惠及烝民。聖主明王,萬載一遇。朕既上承天命,下統群生,每有征行,皆奉天意。是以機謀在己,取捨如神,國令既行,人情大附。舛訛歸正,遐邇無愆。可謂大含溟海,安納泰山矣!自我國之經營,為群方之父母。憲章斯在,胤嗣何憂? 升降有期,去來在我。良籌聖會,自有契於天人;眾國群王,豈可化其凡骨? 三年之後,歲在丙戌,時值初秋,必有歸處。然未終兩事,豈負親誠? 日月非遙,戒嚴是速。」聞詔者皆驚懼,莫識其意。是日,大舉征吐渾,党項,阻卜等部。詔皇太子監國,大元帥堯骨從行。 — 遼史、巻二、本紀第二

伝記資料

  • 遼史』巻一・本紀第一
  • 『遼史』巻二・本紀第二

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