調庸制の改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
神護景雲2年9月15日(768年10月29日)、陸奥国は積雪が多く、初夏(4月)に調を京進して季秋(9月)に本郷へと帰るため、百姓(公民)の生業が甚だしく妨げられていることを理由に、百姓より徴収した調庸物を一旦陸奥国に留め置き、10年に1度だけ京進したい旨を中央政府へと要望し、これを許可された。この要望が陸奥国・出羽国の調庸物京進停止の端緒となった可能性が高い。陸奥国の調庸物は他国と変わりなく調布や様々な特産品が収取されていたが、この時期から蝦夷に対する夷禄として支給される狭布や蝦夷への饗宴で消費される米穀へと品目が替えられている。陸奥国の調庸制が本来の都への貢進制度から、夷禄や食糧米といった蝦夷に対する支給物を調達するための制度に作り替えられはじめた。 このように調・庸が現地で消費されるようになった一方、交易雑物制によって陸奥国・出羽国から葦鹿皮(ニホンアシカ)や独犴皮など毛皮類が、陸奥国では他にも砂金や昆布(マコンブ)、策昆布(ミツイシコンブ)、細昆布(ホソメコンブ)が特産物として都へ送られていたとみられる。また、蝦夷系住人によって飼養された馬と鷹が、調庸制や交易雑物制とは別の収取システムによって蝦夷社会から国家側社会へともたらされていたと考えられる。調庸物や正税利稲といった公民の手になる生産物を、毛皮・昆布・金・馬・鷹など蝦夷社会の生産物に変換して収取する体制が創出された。
※この「調庸制の改正」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「調庸制の改正」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。
- 調庸制の改正のページへのリンク