近藤たま
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近藤たま(こんどう たま、文久2年2月15日(1862年3月15日) - 明治19年(1886年)6月28日)は、明治時代の一般女性。新選組局長近藤勇の娘。母は松井つね。名は主に瓊と表記。
文久3年(1863年)、2歳の頃、父・勇が浪士組として京都へ出立し、後に新選組を結成。勇は池田屋事件などで名を轟かせたが、戊辰戦争が勃発したため新政府軍により斬首に処せられた。たまは当時6歳。許嫁の宮川勇五郎(後、近藤勇五郎)、母・つねと共に本郷村成願寺に隠れ住んでいた[1]。
維新後は、伯父(勇の兄)・宮川音五郎に引き取られ、明治9年(1876年)に許嫁の宮川勇五郎(音五郎の次男)と結婚。勇五郎は近藤姓を継ぎ近藤勇五郎となる。
明治16年(1883年)にたまにとっての唯一の実子、長男・久太郎を出産。その3年後、母に先立って他界。享年25。
死後
その後、勇五郎は再婚する。明治38年(1905年)に久太郎が日露戦争で死亡したため、近藤勇の嫡流子孫は途絶えてしまった。
脚注
- ^ 赤間倭子. “物語・成願寺と新選組”. 多宝山成願寺. 2016年6月1日閲覧。
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