ちょうしゅう‐ぶろ〔チヤウシウ‐〕【長州風呂】
長州風呂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/12 08:20 UTC 版)
元々、五右衛門風呂とは、底釜だけが鋳鉄製で、その上に木製の桶を乗せたもの、長州風呂が桶も含めて風呂釜全体が鋳鉄製のもの、と区別していた。 ある百科事典では、長州風呂は中国から長州に伝わり一般化したとしているが、これは東大寺復興に尽力した重源が、大仏殿再建のため巨木を求め、186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為、のちに開山した周防国阿弥陀寺において湯施行の施設として整備した鉄湯船であり、南宋で知り得たものを国内で再現したとされるもので、行われた可部においては別の説がある。 「風呂」も参照 江戸時代は鉄が貴重であったことから、木桶+鋳鉄釜型が主流であったが、明治時代に入り製鉄の近代化が進み、鉄の流通量が増えると、一体型が作れるようになった。可部でも作るようになり、当初は「広島風呂」「芸州風呂」として売り出していたが、可部の鋳物師が“広島は佐幕派だから京都・大阪ではイメージが悪い”と「長州風呂」と名を改めて売り出したところ爆発的に売れた。一方で旧来の五右衛門風呂は、木桶と鋳鉄釜の接合部分から水が漏れることもあって次第に廃れていき、逆に名前は長州風呂呼称が廃れ、五右衛門風呂呼称が一般的となった。 一時は風呂釜の全国生産量の約8割が広島産で、そのうち7割が可部で作られたものであったと言われ、一大産地であった。可部の鋳物屋は、ほぼ五右衛門風呂かその関連商品を作っていたという。そうした中で第一次大戦後に鋳物製造の近代化が進み、町の南端である中島地区に生産の中心地が移っていった。風呂釜は台湾・朝鮮・満州などにも輸出していたという。 ただ、ガスの普及や公団住宅の増加などでホーローやFRPなどの浴槽が急速に普及したことによって、五右衛門風呂以外の商品も作られるようになり、オイルショックを境に、完全に五右衛門風呂製造から撤退して他商品へと移っていったという。 現在の可部の鋳物メーカーは、エンジン・ポンプなどの機械部品、金型、マンホールの蓋製造が主流となっている。 2018年現在、国内で唯一五右衛門風呂を製造している大和重工も、また可部の会社である。
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