阿以田治修とは? わかりやすく解説

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阿以田治修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/08 22:25 UTC 版)

阿以田 治修(あいだ じしゅう、1894年明治27年)11月16日[1] - 1971年昭和46年)2月15日[1])は、大正-昭和期の日本洋画家。本名は会田 治修 [1]

経歴・人物

東京府生まれ[1][2]私立郁文館[1][2]

自身のアトリエで洋画を描き始め、1914年大正3年)太平洋洋画会研究所に入り、満谷国四郎に師事[1][2]1919年(大正8年)二科会に初入選を果たし、1922年(大正11年)からヨーロッパへ留学[2]フランスでロジェ・ビシエールに学んだほかイタリアスペインにも渡った[2]

帰国後、1925年(大正14年)の第6回帝展に「読書するイボンヌ」を出品し、入選[2]。さらに、1926年より第7回から9回までの帝展にて「髪」、「画房小閑」、「部屋つづき」が3年連続で特選に選ばれた[1]

1929年(昭和4年)以降は帝展無鑑査となり、 のち1933年(昭和8年)に帝展の審査員となった [3]。そののち太平洋洋画会員としても活動[2]1936年(昭和11年)伊原宇三郎らと大蒼会を、1940年(昭和15年)大久保作次郎、小柴錦待、柚木久太、安宅安五郎鈴木千久馬中野和高らと共に創元会を、翌年の1941年(昭和16年)には三果会を創立した[1][2]

戦後、一時無所属となるが、1950年(昭和25年)小牧近江らとH・H(Hanney-homme)会を結成した[2]。晩年は網膜剥離に罹患し、小さな作品の製作が主となった[2]

門下に小林邦二など[1]

代表作

  • コンポジションA
  • 画房小閑

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『阿以田治修』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『阿以田 治修』 - コトバンク
  3. ^ 日本画伊藤深水ら、新たに審査員に『中外商業新報』昭和8年9月5日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p410 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)



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