雑賀侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)
元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。 元々雑賀荘には浄土宗西山派の本山である総持寺があり、雑賀衆の中には真宗門徒もいれば、それ以外の宗派を信じる非門徒も多くいた。石山戦争の過程で雑賀衆の中でも本願寺を支援したい真宗門徒と信長に対して反感を持つ一部の非門徒が連携して一向一揆を編成していくのに対し、この動きに反発する非門徒もおり、彼らは雑賀三組を中心に信長と協力して反一向一揆の動きを強めていったとみられる。
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