鹿児島県鹿児島市「浜の茶屋」 あら炊き 亡き家族と50年
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ブリのコク広がる
真っ青な空の下、海の真ん中にどっしりと鎮座するのは、鹿児島県のシンボル・桜島だ。雄大な景色を右手にしながら鹿児島市の国道226号を駅から歩くと、風になびく紫色ののぼり旗が見えてきた。
旗には「あら炊き」の4文字。食堂「浜の茶屋」の看板メニューだ。「店ができた頃から出してるんだよ。食べてみて」。店に入ると、
用いるのは、ぶつ切りにした県産ブリの頭。なにしろ鹿児島はブリの養殖が日本一だ。これを水を使わず、しょうゆとみりん、酒、隠し味のザラメ糖を入れ40分ほど煮る。「ブリをきれいに洗い、煮すぎないのがポイント」と話すのは調理を担当する、美和子さんのおいの久征さん(47)。料理を修業した京都の味を取り入れ、あっさり仕上げる。
あら炊きのブリの身は断面が美しい。そして、すっと箸が入る軟らかさに驚く。九州ならではの甘めのしょうゆと脂ののったブリのコクが口いっぱいに広がった。皮もプリプリし、気づいたらおひつのご飯がなくなっている。みそ汁と小鉢、漬物付きの定食は850円だ。
職場の同僚と訪れた市内の男性会社員(34)は「いろんなところであら炊きを食べてきたけれど、ここが一番。県外の人を連れて来ても『おいしい』と評判です」と笑顔だ。
ゆっくり時が流れるようなたたずまいの店内からも、桜島がよく見える。その雰囲気が一変するのが、お昼時の正午過ぎ。店内は近隣で働く人たちでいっぱいになった。
調理場はフル稼働に。「あら炊き、ご飯大盛り! から揚げ!」と美和子さんの声が響く。「スピード勝負だから」と注文のメモは取らず、頭で覚える。久征さんは氷タオルを首に巻き、手際よく料理を仕上げる。できあがると、美和子さんが「はい! おまちどおさま」と席へと運ぶ。久征さんの母・久子さん(71)も加わって大忙しだ。「家族みんなでやってきた店だからね」と美和子さんは胸を張った。
大黒柱次々失い
店は1968年に開店。現在料理を担当する久征さんの父・芳久さんは料理長だった。その翌年、美和子さんは芳久さんの兄・勝喜さんと結婚し、店を手伝い始めた。
ほどなくして、夫の勝喜さんは勤めていた会社を退職。食堂と同じ敷地内にすし屋を開いた。美和子さんは夕方まで食堂を手伝い、夜からはすし屋のカウンターに立った。「宴会もたくさんあって。息子たちがおなかにいるときも働いたわ」と笑う。
ところが、97年に食堂の料理長だった芳久さん、翌98年には夫の勝喜さんが亡くなる。立て続けに大黒柱を失って、美和子さんは「店をやめよう」と思ったという。「でもね、地元の人たちが『店の明かりを消さないで』って言ってくれて」
その頃、京都で料理修業中だった久征さんが食堂に戻ってくることが決まり、店を続ける決意をした。
星空見上げて
店に来てくれる人の顔は、名前は分からなくても覚えていて、「いっぱい食べなきゃ」「また来てね」と声をかける。月に5回は訪れるという中山健さん(56)は「料理がおいしいのはもちろん、おばちゃんの明るいところが好き。店で話をするのが楽しみ」と話す。美和子さんも「お客さんから元気をもらっている」とほほえんだ。
仕事を終えて自宅の玄関に到着すると、美和子さんは星空を見上げる。
「お父さんたち、今日も一日、何事もなく終わったよ」
空の向こうにいる勝喜さんはもちろん、飼い犬のジョン、ネコのちびに向かって、心の中でつぶやくのだという。
「毎日、同じことを繰り返しているだけ」と美和子さんは笑うが、何事もない日々を積み重ねるのは、どれだけ大変なことだろう。「60年を目指して、あと5年は元気で働きたい」。浜の茶屋の明かりをこれからもともし続ける。(生活部 松本彩和)