コミュニケーションはフリーターにとって魔物だ。
よくフリーターはコミュニケーションに難があると言われる。(その点、「引きこもり」と似ているとも。)
これは、正社員中心のムラ共同体たる会社中心の発想だ。それはまた言葉の暴力であり、文化の暴力だ。
その言説をばらまく彼(女)らは、だいたいは社会的地位の高い人たちだ。それで、「あなたは自分を磨く努力をしていない」「人づきあいを大切にしていない」「人と人との間で生きていけないかわいそうな人」といったことを叫ぶ。怒鳴る。
冗談ではない。いい加減にしてほしい。
その人たちにとって、「人」とは正社員のことなのだ。正社員はたとえば、交通費が出ないなんて考えにくいし、ちょっと病気やケガをしても簡単にはクビにならない。人から軽蔑されることもない。正社員しか受けられない研修から外されてもいない。部分就業でも半失業でもない。残業時間が長くても、自立できる。マスコミに揶揄される情報に囲まれることもない。それはフリーターからすれば特権階級のようなものだ。
「自分を磨く努力」は、最低限の自尊心と生活レベルの確保できる正社員の特権みたいなものだ。明日のライフ・ライン例えば携帯を維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。)を確保できるかどうかも分からない貧しい人間には関係ない。(1)今の社会の「魅力」が中流~上流の人たちのそれに限定されていることも、問題を深くする。
「人づきあい」は大事だと思う。けれど、特に90年代半ばごろから、余裕がない。以前はときどきしていたことーー誰かの家に集まってクリスマスパーティーを開くとかーーは、今はもう昔だ。少なくとも自分とその周りの人間ではそうだ。「父親福祉」(竹信三恵子)が使える人は別かもしれないが、違う条件の人たちもいることを忘れてはならない。
そもそも、そういう人たちが前提とする「人」とは、だいたいは中産階級の暮らしのできる正社員のことである。また、学校教育の中で大きく失敗した人も含まれない。人生の途中で経済的に苦労した経験を持つ人もいないようだ。その人たちの言い分をよく聞いていると、フリーターどうしの職場が変わる中でなんとかメールで連絡を保つことは人づきあいのなかに入れない。「とにかく、人と会え!」などとお説教をしてくる。しかし部屋は狭く散らかっている。私の場合は片付けられない。人が余裕がなくて、他人に親切にしたり、恥ずかしくない格好で街に出たり、ちょっと喫茶店に入ったりするお金もないのにそれを求める。もちろん、ムリをして借金をしたり、ボロボロの格好で外に出たり、最新の情報を仕入れていなかったりすれば「何をやっているんだ!」と叫ぶ。「古いよ~!」とバカにしつつ抗議してくる。
また、また、「つきあい」のパターンも正社員中心のものだ。一日一日いっしょに働くメンバーが変わる日雇いのフリーターには無関係だ。
なのに、ムリヤリいっしょの価値判断で人を計る。あまりに不公平な競争だ。経営者の価値観に媚びた考えだ。狭い、偏った、就職試験に使うことも考慮の余地のある発想ではないのか? ただ、こういうことを言えば「ルサンチマンが強すぎる」「攻撃性が強すぎる」「コミュニケーション能力がない」とさらに非難をあびる。
だから、みなおとなしくヘラヘラ笑っている。でもストレスはたまるので、時々キレる人や、いきなり相手につっけんどんな態度をとる人も出てくる。そうするとまた「攻撃性が~」「コミュニケーションを大事に~」とのお説教だ。
明るさ、ゆとりのあるさわやかさの強要もそうだが、これは「象徴暴力」だ。社会学者のブルデューが言い出した概念で、言葉や文化、恣意的な正当性などによって特定の偏った価値を押し付けるという意味で使われる。物理暴力の対抗概念だ。
象徴暴力を打ち破ることができるのは、オルタナティブな象徴暴力だろう。
「いい人」を演じて疲れ果てる。そもそも自分の生活実態とあわない演技を強いられて、努力とガマンを重ねて自分の素直な考えと感情を裏切り、あげくのはてによりスムーズにそれをこなせるグループから「不自然」となじられる。それもまた、社会的な配分によっているのに。それもまた文化の中の概念なのに。
そこで「自然主義の誤謬」を持ち出せば、また「頭はよくても性格が悪いんだね」といった道徳的なお説教が飛んでくる。
それでも、わたしは「抵抗勢力」になってしまう。短いフリー・スクールの生活で身に着けた「パレーシア」の慣習があるから。つまり、自分と同等かそれ以上の者の前で自分の真実と思うところを、リスクをかけても訴えるから。すなわち、古代ギリシャの民主制を支えた「権利の平等」
と並ぶもうひとつの柱を守るべき価値とみなすので。
そういえば、もともと内申書・勤務評定・心のノートにも反対なのだった。コミュニケーションとかいう階級差別の道具にして意味不明の選抜手段に忠誠を誓いたくはない。たとえ江戸時代の家臣のように切腹を命じられてもあえて「異心」を抱きたい。
絶望の状況と気分がわたしにこれを書かせた。
人づきあいは大事だ。しかしそれは自分が自由に選べないといけない。また、互いに尊敬できないと難しい。互いに偏見を抱き、自分たちの未来のなさ、今の悲惨から目をそむけるために互いに軽蔑しあう今の状態では、フリーターどうし、継続的に相手とつきあいたいとは思えないことが多い。もちろん、ひとつの職場に長くいられないこと、職場のサークル等に規則と経済的条件の両方の理由によって所属できないこと、地域のNGOによる無料または安価な社交サークルが充実していないことなども原因のうちだ。
そのような多重苦のなかで、いつも明るく上品に礼儀正しくふるまえ、と言われても本当に困難なのだ。
もちろん、正社員にそう言わせる背景には経営者の集団的自己中心主義が存在する。それこそを最も強く批判しなければならない。しかし、スポンサーに遠慮してばかりのTVなどには難しいだろう。
それでも、コミュニケーションとか自然主義とかとかは、争いたい。自分の権利と尊厳のために闘っていきたい。
(1)例えば、携帯電話が使えるように維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。携帯電話は会社やフリーター仲間との連絡に欠かせない。フリーターの職場はよほどのことがないかぎりコンピューターを使えない環境にあるからだ。また、携帯所持者出なければ連絡に不便だからと雇用を嫌がる会社もある。ある労働組合アクテイヴィストは「今は携帯電話が『寄せ場』になっている」と語っている。彼によると、携帯を通じて細切れの≒日雇いの仕事の情報を手にしているというわけだ。
(ここは後で注をつける予定です。少々、お待ちください。)
よくフリーターはコミュニケーションに難があると言われる。(その点、「引きこもり」と似ているとも。)
これは、正社員中心のムラ共同体たる会社中心の発想だ。それはまた言葉の暴力であり、文化の暴力だ。
その言説をばらまく彼(女)らは、だいたいは社会的地位の高い人たちだ。それで、「あなたは自分を磨く努力をしていない」「人づきあいを大切にしていない」「人と人との間で生きていけないかわいそうな人」といったことを叫ぶ。怒鳴る。
冗談ではない。いい加減にしてほしい。
その人たちにとって、「人」とは正社員のことなのだ。正社員はたとえば、交通費が出ないなんて考えにくいし、ちょっと病気やケガをしても簡単にはクビにならない。人から軽蔑されることもない。正社員しか受けられない研修から外されてもいない。部分就業でも半失業でもない。残業時間が長くても、自立できる。マスコミに揶揄される情報に囲まれることもない。それはフリーターからすれば特権階級のようなものだ。
「自分を磨く努力」は、最低限の自尊心と生活レベルの確保できる正社員の特権みたいなものだ。明日のライフ・ライン例えば携帯を維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。)を確保できるかどうかも分からない貧しい人間には関係ない。(1)今の社会の「魅力」が中流~上流の人たちのそれに限定されていることも、問題を深くする。
「人づきあい」は大事だと思う。けれど、特に90年代半ばごろから、余裕がない。以前はときどきしていたことーー誰かの家に集まってクリスマスパーティーを開くとかーーは、今はもう昔だ。少なくとも自分とその周りの人間ではそうだ。「父親福祉」(竹信三恵子)が使える人は別かもしれないが、違う条件の人たちもいることを忘れてはならない。
そもそも、そういう人たちが前提とする「人」とは、だいたいは中産階級の暮らしのできる正社員のことである。また、学校教育の中で大きく失敗した人も含まれない。人生の途中で経済的に苦労した経験を持つ人もいないようだ。その人たちの言い分をよく聞いていると、フリーターどうしの職場が変わる中でなんとかメールで連絡を保つことは人づきあいのなかに入れない。「とにかく、人と会え!」などとお説教をしてくる。しかし部屋は狭く散らかっている。私の場合は片付けられない。人が余裕がなくて、他人に親切にしたり、恥ずかしくない格好で街に出たり、ちょっと喫茶店に入ったりするお金もないのにそれを求める。もちろん、ムリをして借金をしたり、ボロボロの格好で外に出たり、最新の情報を仕入れていなかったりすれば「何をやっているんだ!」と叫ぶ。「古いよ~!」とバカにしつつ抗議してくる。
また、また、「つきあい」のパターンも正社員中心のものだ。一日一日いっしょに働くメンバーが変わる日雇いのフリーターには無関係だ。
なのに、ムリヤリいっしょの価値判断で人を計る。あまりに不公平な競争だ。経営者の価値観に媚びた考えだ。狭い、偏った、就職試験に使うことも考慮の余地のある発想ではないのか? ただ、こういうことを言えば「ルサンチマンが強すぎる」「攻撃性が強すぎる」「コミュニケーション能力がない」とさらに非難をあびる。
だから、みなおとなしくヘラヘラ笑っている。でもストレスはたまるので、時々キレる人や、いきなり相手につっけんどんな態度をとる人も出てくる。そうするとまた「攻撃性が~」「コミュニケーションを大事に~」とのお説教だ。
明るさ、ゆとりのあるさわやかさの強要もそうだが、これは「象徴暴力」だ。社会学者のブルデューが言い出した概念で、言葉や文化、恣意的な正当性などによって特定の偏った価値を押し付けるという意味で使われる。物理暴力の対抗概念だ。
象徴暴力を打ち破ることができるのは、オルタナティブな象徴暴力だろう。
「いい人」を演じて疲れ果てる。そもそも自分の生活実態とあわない演技を強いられて、努力とガマンを重ねて自分の素直な考えと感情を裏切り、あげくのはてによりスムーズにそれをこなせるグループから「不自然」となじられる。それもまた、社会的な配分によっているのに。それもまた文化の中の概念なのに。
そこで「自然主義の誤謬」を持ち出せば、また「頭はよくても性格が悪いんだね」といった道徳的なお説教が飛んでくる。
それでも、わたしは「抵抗勢力」になってしまう。短いフリー・スクールの生活で身に着けた「パレーシア」の慣習があるから。つまり、自分と同等かそれ以上の者の前で自分の真実と思うところを、リスクをかけても訴えるから。すなわち、古代ギリシャの民主制を支えた「権利の平等」
と並ぶもうひとつの柱を守るべき価値とみなすので。
そういえば、もともと内申書・勤務評定・心のノートにも反対なのだった。コミュニケーションとかいう階級差別の道具にして意味不明の選抜手段に忠誠を誓いたくはない。たとえ江戸時代の家臣のように切腹を命じられてもあえて「異心」を抱きたい。
絶望の状況と気分がわたしにこれを書かせた。
人づきあいは大事だ。しかしそれは自分が自由に選べないといけない。また、互いに尊敬できないと難しい。互いに偏見を抱き、自分たちの未来のなさ、今の悲惨から目をそむけるために互いに軽蔑しあう今の状態では、フリーターどうし、継続的に相手とつきあいたいとは思えないことが多い。もちろん、ひとつの職場に長くいられないこと、職場のサークル等に規則と経済的条件の両方の理由によって所属できないこと、地域のNGOによる無料または安価な社交サークルが充実していないことなども原因のうちだ。
そのような多重苦のなかで、いつも明るく上品に礼儀正しくふるまえ、と言われても本当に困難なのだ。
もちろん、正社員にそう言わせる背景には経営者の集団的自己中心主義が存在する。それこそを最も強く批判しなければならない。しかし、スポンサーに遠慮してばかりのTVなどには難しいだろう。
それでも、コミュニケーションとか自然主義とかとかは、争いたい。自分の権利と尊厳のために闘っていきたい。
(1)例えば、携帯電話が使えるように維持するだけで四苦八苦だ。自分の知り合いのあるフリーターは、日本の携帯すべてを試したことがあると語る。それは、より安いプランを求めて複数の携帯会社・コースを渡り歩くからである。携帯電話は会社やフリーター仲間との連絡に欠かせない。フリーターの職場はよほどのことがないかぎりコンピューターを使えない環境にあるからだ。また、携帯所持者出なければ連絡に不便だからと雇用を嫌がる会社もある。ある労働組合アクテイヴィストは「今は携帯電話が『寄せ場』になっている」と語っている。彼によると、携帯を通じて細切れの≒日雇いの仕事の情報を手にしているというわけだ。
(ここは後で注をつける予定です。少々、お待ちください。)