将棋電王戦でミスなく仕事 「代指しロボット」の舞台裏
有明コロシアムで行われた第1局では、電王手くんを対局場の畳の上に置いただけのように見える。だが、実際はその下にある床面に固定していた。対局場は床面に対して30cmほど上げ底になっており、電王手くんのコントローラーもこのスペースに格納していた。コントローラーは、対局場の外にある控え室のコンピューターと有線LANでつながっていた。
澤田氏によれば、第1局の設置環境は全5局の中ではまだマシな方だったという。第3局の会場である「あべのハルカス」では電王手くんをじゅうたんの上に、第5局の「東京・将棋会館」では畳の上に設置せざるを得ない。こうした柔らかい床面に設置する場合は、揺れへの対策が重要になる。
駒を成らせる動きに工夫
開発陣の工夫の跡がしのばれたのは、駒を成らせる動きである。まず将棋盤上にある対象の駒を吸着し、その駒を将棋盤の外にある治具に立てて置く。その後、反対側から吸着し、将棋盤上の所定のマスに置くという手順で実現している。駒を立てるための治具は、電王手くんの左斜め前方に設置した。
駒を治具まで持っていく際、直線的に移動するとハンドに取り付けられたカメラが治具や将棋盤とぶつかってしまう。従って、治具との衝突を回避するように治具付近ではやや複雑な経路で移動している。
第1局で、駒が成る手をコンピューターソフト「習甦」が指示したのは計3回。いずれも電王手くんは成功させた。最初の機会は78手目の「4九歩成」で、電王手くんが駒を無事成らせた瞬間、電王手くんの開発陣が待機していた控え室からは歓声が上がった。この時点で対局開始から既に9時間半近くが経過していたが、澤田氏はそれまで気の休まることがなかったという。
安全確保のために周囲の人や物を検出
基本的に、棋士の近くではゆっくり、棋士の遠くでは素早く動作することで、安全性と効率の両立を図った。例えば、電王手くんの右側方にあるホームポジションでアームやハンドの角度を調整する場合などは、かなり高速で回転している。
電王手くんが動作しているときに人や物が電王手くんの可動域に進入すると、電王手くんは直ちに動作を停止する。これはインターロックと呼ばれる仕組みで、電王手くんの可動域に人や物が存在しないことを電王手くんが動作するための条件に設定しているのだ。
人や物の検出には、特定領域にある物体を検出するエリアセンサーを用いた。具体的には、対局者の右斜め前方(電王手くんの左斜め前方)に1個、電王手くんの斜め後方に2個、計3個のエリアセンサーを設置している。
対局者の近くに設置されたエリアセンサーの目的は、主に対局者による可動域への進入を検出することである。対局者が可動域に進入していると、ロボットは動かない。従って、澤田氏は対局の前に棋士の菅井竜也五段にエリアセンサーの存在を伝えるとともに、コンピューター(習甦)の手番時には将棋盤にあまり近づかないように依頼した。
ロボットが動けなくなる状況も4回あり
実際には、ロボットが動き始めようとするタイミングで、菅井五段が前のめりになったり将棋盤の近くに手を突いたりして可動域に入っていたためにロボットが動き始めないという状況が、10時間20分に及ぶ対局の中で4回ほどあったという。
ただし、いずれもこの状況は短時間で解消されたため、対局に大きな影響は与えなかったと澤田氏はみている。ちなみに、人や物が可動域に進入していることを理由にロボットが動かなかったとしても、あくまでロボットの動作にかかった時間としてカウントされるので、コンピューターや棋士の持ち時間は減らないという。
今回は大きな問題にならなかったものの、棋士が前のめりになったり将棋盤の近くに手を突いたりすることは、実際の対局でよく見られる動作だ。それによって対局が進行しなくなる事態が生じる可能性は、今後の対局でもある。
技術的には、光や音などで可動域への進入を棋士に知らせることはそれほど難しくないとみられるが、電王手くんは「対局者に威圧感を与えない」ことをコンセプトとしているので、そのような手段の採用は考えにくい。一方で、棋士の行動を大きく制限するのも、澤田氏をはじめとする開発陣や主催者の本意ではないだろう。棋士による可動域への意図せぬ進入への対応は、今後の課題になりそうだ。
「人間よりやりやすいかも」
記者は対局終了後、菅井五段に電王手くんの動きについて「違和感はあったか」と質問した。これに対して、菅井五段は「違和感はなかった」とコメントした。
対局前に電王手くんが"おじぎ"のような動作をした直後や、駒台に置かれていた駒を自陣に並べている最中には、菅井五段の表情が若干緩むような場面も見られた。これらは、菅井五段にとって予想外の動きだったという。対局直後には、「人間よりもやりやすいかもしれない」という感想も述べていた。
普段は工場で搬送や組み立てに活躍
電王手くんのベースとなった「VS-060」は、工場などで搬送や組み立てといった作業に使われる6軸垂直多関節ロボットである。澤田氏によれば、将棋盤の大きさだけを考えると、本来は一回り大きなロボットが最適だという。しかし、プロ棋士に威圧感を与えないようにするために、VS-060を最終的に選んだ。
VS-060では、エリアセンサーによるインターロックだけで安全を確保している事例がほとんどない。普段稼働している工場や物流拠点では、安全柵など物理的に可動域への進入を防ぐ手段と組み合わせる。ロボットのような産業機器で安全を確保するための基本的な手段は「隔離」と「停止」であり、安全柵は隔離、エリアセンサーによるインターロックは停止に相当する。
電王戦の主催者から打診があったときも、当初は安全柵を設置する構想だった。しかし、安全柵を設置すれば対局の雰囲気を損なってしまう。最終的には、エリアセンサーだけで可動域への進入を検出する方式に切り替えた。この決断は、ギリギリまで迷ったという。
ただし、エリアセンサーが棋士の行動を制限しかねないことは先に述べた。それでは、安全柵もエリアセンサーも使わずに安全を確保することは可能なのか。産業用ロボットの安全要求事項を定めた国際規格「ISO 10218-1」(JIS B 8433-1)によれば、ロボットの動作速度が毎秒250mm(毎時0.9km)以下であれば、人がロボットの可動域内で作業できることになっている。
しかし、澤田氏によれば、動作速度を毎秒250mm以下に抑えると対局の進行が滞ってしまう上、その場合でも安全対策が全く要らないわけではない。このため、エリアセンサーによるインターロックが現実的な解になるという。
約1カ月でスピード開発
工場などに比べれば、将棋電王戦は可動域に人や物が進入したり人とロボットが衝突したりする確率は低く、けがなどのリスクは小さいとみられる。それでも、電王戦を通じて蓄積されるデータやノウハウは、社会において人とロボットの協業を進めていく上で重要な資産となるだろう。
主催者のドワンゴからデンソーグループへの打診があったのは2013年末。実質的な開発期間は1カ月程度だったと澤田氏は振り返る。ロボットの動作がもしうまくいかなかったとしたら、失うものは少なくなかったはずだが、従来の製造業にはあまり見られないスピード感で異業種とのコラボレーションを実現した。
(日経テクノロジーオンライン 高野敦)
[Tech-On!2014年3月18日付の記事を基に再構成]