ファーガソン監督は怒鳴っても…体罰問題を考える
サッカージャーナリスト 原田公樹
香川真司が所属するマンチェスター・ユナイテッド(マンU)のサー・アレックス・ファーガソン監督は、選手をひどく怒鳴り散らすことで知られる。日本ではよく「瞬間湯沸かし器」というが、これになぞらえて、英国ではファーガソン監督の激怒のことを「ファーギーズ・ヘアドライアー・トリートメント」と呼ぶ。だが決して、監督は選手に手を上げることはない。これはマンUに限ったことではなく、どこのクラブでも、ユースレベルでも、どんな競技でも同じだ。欧州のスポーツ界は、「体罰」とは無縁なのである。
■欧州では体罰はほぼあり得ない
私はこれまで軽いゲンコツや軽く棒で尻をたたくといった程度の体罰なら、あってもいい、と考えていた。おそらく日本国内でもそう考える人はいたのではないか。私もこの取材を始めるまで、そういった緩やかな体罰の容認派だった。私自身、幼いときから何人かの指導者らから体罰を受けた経験があり、それによって多少、根性がついたかもしれない、と思っていたからだ。
ところが、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部男子生徒が体罰を苦に自殺した事件をきっかけに、いま住んでいる英国スポーツ界や教育の現場ではどうなっているのか、取材を始めた。すると英国では、体罰はまず存在しないことが分かったのである。
英国ばかりではない。欧州各国でプロ、ユース、教育界を問わず、すべてのカテゴリーで選手や生徒、児童が指導者や教育者から体罰を受けることは、ほぼあり得ないという現実が見えてきた。
■「ルーニーが体罰を受けたことがあれば大問題」
それなのに欧州の各スポーツ界では、プロ、アマ問わず超一流の選手が育っている。精神的にも肉体的にも強く、人としても尊敬を集めるアスリートたちが大勢いる。サッカーでいえば、マンUで香川のチームメートであるイングランド代表のFWウェイン・ルーニーや、オランダ代表のロビン・ファンペルシーも、おそらく一度も体罰は受けたことがないはずだ。
本人に確かめることができなかったから、断言はできないが、クラブ関係者や担当記者に聞くと、一様に日本の現状に驚き、「いまも昔も選手同士の喧嘩(けんか)はあるが、体罰はあり得ない」「もしルーニーがコーチから体罰を受けたことがあったなら大問題だ」「欧州のスポーツ界で体罰は聞いたことも、見たこともない」と話していた。
欧州のやり方がいつも正しいとは思わないし、必ずしもそれをまねる必要はない。だが、「体罰ゼロ」で、これだけ有能な選手たちを輩出している現状を無視するわけにはいかない。取材を続けると、英国に住んで14年間、ずっとくすぶっていた「日本のスポーツ界に流れる違和感」が、この体罰問題と関係あるのではないか、と思えてきた。
■多くは「愛のムチ」だったと思っているが…
私の家庭では、幼いころから体罰は日常だった。海上自衛官の厳しい父親は、相当にやんちゃだった私の頬をはたき、母親にもよく叩かれたものだ。
だからなのか、初めてコーチから体罰を受けたときも、別にどうってことはなかった。小学2年のとき通ったスイミングスクールでは、何だかんだとビート板で叩かれた。次いで通い始めた剣道場でも、尻を竹刀で叩かれた。尻やももが赤くみみず腫れのようになったときもあるが、かえって親に得意そうに見せたものだ。何か"勲章"でももらったような感覚だったのだろう。
男子校の中高一貫の6年間でも複数の先生から厳しい指導を受けたが、多くは「愛のムチ」だったと思っている。謹慎や停学になるより、多少殴られて終わるなら、そのほうが好都合とも考えていた。
こうした経験があるから、ある程度の体罰は仕方ない、とずっと考えていたのである。
■かつて英国にも体罰は存在した
取材を進めてみると、かつて英国にも体罰は存在した。しかも体罰の器具まであったのだ。高校教師を務める友人によると、1980年代初頭まで、スコットランドを中心とした英国北部では、教師は「トーズ」と呼ばれる、ベルトのような革製のムチのようなものを持っていたという。生徒にお仕置きをするとき、両手を前に出させ、その手をトーズで叩くことを許されたのだ。
その「むち打ち」の回数は教師の裁量によって決まるが、最大回数は決まっていたという。しかし1982年に欧州人権裁判所の裁定により、その後、英国でも全面的に体罰は禁止された。
その友人は親が教師だったため、いまでも家には、いまや歴史的な骨董品となったトーズがあるという。今度、見せてもらおうと思っている。
その友人の高校教師によると、現在、英国の教育現場では、例えば、生徒に対して「よくやったな」と背中や肩を触れることさえないという。体罰と誤解されるような行為は、一切しないのが教師の鉄則だそうだ。
■怒鳴り散らすことは当たり前だが…
また別の高校教師によると、「部屋で生徒と2人で話をするときも、必ずドアは開けておく」という。これは生徒に虚偽の訴えを起こされないため、常に第三者の目にさらす、教師自身の"自衛策"なのだ。
私の高校時代とはまったく異なるし、現在の日本の高校の現場とも、大きな違いがあるだろう。先生と生徒の関係が非常に希薄な印象だが、これが一切の体罰を禁じ、それを順守する英国の現状である。
ではスポーツ界ではどうか。マンUのファーガソン監督の激怒は香川にとっても衝撃だったようで、インタビューで「あんなにゲキを飛ばすとは思っていなかった」と話したほどだ。
前半の出来が悪く、ハーフタイムにファーガソン監督にひどく怒鳴られたと思われる選手たちが、後半に奮起してゲーム内容がガラッと変わり、勝利した試合は何度も見た。
ファーガソン監督だけでなく、プロチームの監督は、ロッカールームで選手たちを怒鳴り散らすことは、ごく当たり前だ。しかし、指揮官が選手に体罰を加えることは決してない。
■ユースレベルでも選手に手を下すことはなし
2003年、激怒したファーガソン監督が蹴っ飛ばしたスパイクが、ベッカムの目の上に当たり、負傷する事件があった。これをきっかけにベッカムはレアルに移籍したが、これはあくまでも"偶発の事故"である。
また今年1月、マンチェスター・シティーの練習場で、FWバロテッリ(現ACミラン)とマンチーニ監督がもみ合うという事件があった。大問題となり、結局、バロテッリはACミラン(イタリア)へ移籍した。だが、このときもお互いにシャツは引っ張ったが、どちらも殴ってはいない。
ユースレベルでも、コーチが選手に対して、手を下すことはまったくない。英国やイタリア、ドイツ、フランス、スペインなどのサッカー記者たちに、彼ら自身の体験談を聞いたが、「親にも指導者にも一度も体罰を受けたことがない。喧嘩はあるが、目上の人が選手に対して暴力をふるうのを一度も見たこともない」というか、もしくは「親には叩かれたことはあるが、指導者に体罰を受けたことは一度もない」と話していた。
親以外に体罰を受けた経験をした人は1人もいなかった。欧州のスポーツ界では「体罰」はほぼ存在しないのである。
日本では中学、高校でサッカーや野球など、あるスポーツに取り組み、県や全国レベルまでいったのに、大学へ進学すると、あっさりやめる人がかなりいる。完全にやめなくても、「体育会はいいや。サークルレベルなら」という人たちは相当いる。
■長年続けてきたスポーツへの情熱を失って
将来の就職のことを考え、勉学に切り替えた、という人ももちろんいるだろう。だが、その競技に対する情熱を失ってしまった人も少なからずいるはずだ。
後輩や知り合いの子供たちから相談を受けるが、こんなケースも多い。中学、高校時代、最初は望んで始めたスポーツなのに、指導者からしごかれ、ときには体罰を受け、それでも自分のため、と信じてやってきた。それである程度のレベルまで達したが、高校を卒業するにあたり自我に芽生え、自らに将来の選択肢を与えられたときに「そのスポーツをやめたい」というのだ。
長年続けてきたスポーツへの愛情が消えてしまっているのである。自分やチームの喜びのためではなく、「学校組織や顧問の先生の評価を上げるために頑張ってきた。もう目標がない」と話した子もいた。悲しい現実だ。
こうしてプレーの喜びや魅力を感じられなくなってしまった人たちは、相当に大きなきっかけがないと、本格的に競技を再開することはない。
英国に住んで14年。ずっともやもやしていたことがある。この国の人たちは、なぜスポーツを自分でやるにしても、見るにしても、あんなに楽しそうなのか、ということだ。日本に住む人々とはまったく違う。
週末の公園では、老若男女がジョギングをして、サッカーやクリケット、ラグビーなどを楽しんでいる。毎日あらゆる競技がテレビやネットで中継され、ニュースや情報もあふれる。スポーツは人生の大きな部分を占める人がかなりいるのだ。
英国と比べると、つくづく日本は「スポーツにおいて後れた国」なのだと思う。これは日本人の最初のスポーツへのアプローチが原因なのではないか、と思っている。学校教育の「体育」である。授業の科目として、優劣をはかることに重きを置かれるから、楽しむより競うことが主眼になる。クラブ活動もその延長だ。
■スポーツは人生に喜びを与え、豊かにする
スポーツを通じて人間を育てる、という大号令の下、それによって成績がつけられ、人によっては大学進学も左右する。スポーツの魅力を感じることより、はるかに程遠い、「手段」になってしまっている。
だから英国人のようにスポーツを深く愛し、楽しむことができないのではないか。おまけに日本では教育の現場で体罰が行われたこともあったから、スポーツ界でも体罰が容認されてきた。
スポーツは痛いし、やらされ、耐えるもの、というネガティブな感覚を持ってしまっている日本人も少なくないはずだ。 日本人のスポーツに対する感覚は、本来スポーツが持つ魅力から乖離(かいり)しているのではないだろうか。
私はいま、日本で教育の現場でも、プロ、アマ問わずすべてのスポーツ界でも、体罰を全面的に禁止すべきだと思っている。それだけではなく、スポーツを教育の一コマではなく、もっと独立したカテゴリーに昇格させるべきだ、と考える。
スポーツは人生に喜びを与え、豊かにする。英国のようにスポーツ文化が深く浸透するには、何十年も、もしかしたら何百年もかかるかもしれないが、いまこそ改革の一歩を歩み出すときなのではないだろうか。