「そんなに急いでドコへ行く」
この言葉にあるとおり、我々はそんなに急いでドコに向かおうとしているのでしょうか?
2005年の出来事を振り返ると、ふとそんな疑問が湧いてきます。
大衆メディアでは、一つ事件が起こるたび、その表面的な問題、表面的な対処不足などを指摘します。
「列車事故」が起きれば、自動列車停止装置がどうしたとか、
「みずほ事件」が起きれば、コンピュータプログラムで防げたとか、
「耐震構造の偽造」が生まれれば、検査機関がどうしたとか、
幼児が変質者の被害にあえば防犯装置や、大人との会話の拒絶指導と。。
これらの「対策」が必要無いなどと主張するつもりはありません。
しかし、これらの事件や問題の根底には、共通の原因があると思うのです。
それは、「急ぎすぎ」なのです。
急ぐことによるリターンを超えて、そのリスクが高まっていることを考慮せずにただひたすら急ぐ。
その結果、様々な事件が「表面」として現れたのです。
移動時間を1分削ることで得られるメリットと、1分削るために生じるリスク。
本来は、その両側面を考慮すべきなのに「メリット」ばかりを追いかけてしまっているのです。
企業買収によって、一足飛びに事業を拡大しようと急いだ結果、既存株主を毀損してまで資金調達を実施するインチキ経営者が増えるのです。
急いでカネを稼ごうとしてカネに目が眩み、その価値を見落としている大衆がインチキ商品に群がりインチキビジネスが横行するのです。
インチキビジネスをやっている側は、インチキによって「信用」という最も大切なモノを失うリスクを考慮せず。
インチキに群がる大衆は、「安物買いの銭失い」という言葉を忘れ。
急いでカネを稼ごうと、「近所付き合いによる地域の安全性」が無視され、家族や隣人が全く別の行動をする。
結果、地域の安全性は著しく低下する。
なんで、こんなに急ごうとするのでしょうか?
インチキをしてまで、社会に対する価値も提供せず、それでカネを稼いで、一体何に使おうと言うのでしょうか?
僕は、その一つの経済的側面の原因として、「過剰流動性」を揚げたいと思います。
バブル崩壊後の経済停滞(=デフレーション)を解消するために、政府&日銀は、低金利政策を始めました。
それでも、経済は回らない。
そこでさらに、当座預金残高を増やしジャブジャブと市場に「カネ」を注ぎ込んだわけです。
そのカネは一時期、金融機関で足止めされていたわけですが、それでも「賢い連中」が、低い資本コストで資金を調達できることを利用し、調達と運用の「スプレッド・ビジネス」を始めたわけです。
安いコストで資金を調達することが出来れば、右から左に資金を転がすだけで、儲けることができます。
すると、「もっともっと」と、その投資額を膨らませていきます。
個人投資家の「信用買い残高」が上昇するのも、TVCFで「一見お得な、実は全然お得ではない」保険商品ばかりが宣伝されるのも、高い資本レバレッジの不動産業者の活動により不動産価格が釣り上がるのも、シナジー効果などほとんど現実的では無いにもかかわらず、安易に資金を調達できることによって、M&Aが加速するのも、
結局のところ、その根底には「過剰流動性」があるのです。
結果、「おりこうさん」は、リターンを拡大し、「おばかさん」は、実質的な経済損失に気がつかない。
つまり、「過剰流動性は、貧富の差を拡大する」のです。
貧富の差が拡大すれば、歴史が証明しているように、犯罪が増えるのです。犯罪が増えれば、富む側の人でさえ、生活の安全が失われるのです。
そもそも、急いで稼いで、一体何が得られるのでしょうか?
預金通帳や、証券口座の「資産残高」を見て、ほくそ笑むなんて気持ち悪い人間になりたいのですか?
それとも、メルセデスや豪邸を手に入れれば、幸せはセットで付いてくると思っているのでしょうか?
これらにセットされるのは、幸せではなく、防犯カメラや警備の契約、そして「不安」では無いでしょうか?
人々が、「価値」を忘れ「価格」に翻弄されたのが2005年だったと思います。
僕は、こう思います・・・
個人がせっかく社会に対する真っ当な価値提供によって得られた資金が、インチキビジネス、インチキ商品によって、搾取されない程度で十分ではないかと思うのです。
いかがでしょうか?
得るべきは、カネではなく、生きるための知識なのです。
自らを支える人を毀損してまで、
事故やミスのリスクを増やしてまで、
安全を失ってまで、
そして、信用を失ってまで、
そんなに急いで、一体どこに向かおうというのでしょうか?
2005年は、まさしく、高レバレッジ、高回転でした。
それを支える「負の部分」は、2006年以降、様々な形で表面化するでしょう。
そんな道を選んだのは、他でもなく、我々自身です。
我々がハッピーになるためには、あらゆる事象の根底をなす「経済」についての理解を深め、自らの行動が、副次的にどのような影響を社会に与え、そして自分に跳ね返ってくるかを考え行動する年にしたいものです。
「自分だけがいい思いをする」なんてことは、歴史的にも、理論的にも、心情的にも、感覚的にも、ありえないのですから。
2005年最後のエッセイは、お気に入りの言葉で締めたいと思います。
「Adam Smith said the best outcome for the group comes from everyone trying to do what's best for himself. |
↑ 意味がわからない方は、ジョン・ナッシュの生涯を描いた映画「ビューティフル・マインド」 をご覧ください。)
2005年12月29日 板倉雄一郎
PS:
板倉雄一郎事務所の活動は、2006年も、2005年「同様」、急がず慌てず、これまでのペースを守り、信用を失わないよう、社会に対する価値提供をして行きたいと思います。
読者の皆さま、セミナーにいらしていただいた皆さま、そして今年出逢ったすべての皆さま感謝いたします。
2005年は、ありがとうございました。
2006年も、2007年も、2008年も、(←も~ええちゅうねん)、つまりずっと、よろしくです。良いお年をお迎えください。
ありがとうございました。
PS^2:
「おりおば」に批判的な意見を述べる方は、
「簡単過ぎ!」、「当たり前」、「今更」みたいな表現をされます。
「おりおば」に書いてあること、本当に、簡単ですか?
言葉が優しいから、「簡単に読める」と言うことを否定しません。
というより、簡単に読めるように、結構努力しましたから。
しかし、ひとつ一つのフレーズは、そんな簡単なことではありません。
もし、書いてあることの全てを「簡単なことだ」と言うならば、例えば上場企業の価値算定をしてみてください。
DCF法(ディスカウント・キャッシュ・フロー法)について、その肝であるところの割引率についても、資本レバレッジについても、ビジネスモデルについても、投資家に帰属するキャッシュ・フローが何であるかについても、全て「おりおば」に書いています。
もし以上を本当に理解しているというのなら、「企業価値評価」が可能なはずですから、がんばってやってみてくださいね。
そんなに簡単なことではないはずですよ。
2度、3度と「おりおば」を読んでみてください。
1度目より2度目、2度目より3度目のほうが、新しい発見があるはずです。
「おりおば」は、物理的には「薄っぺらい本」ですが、内容的には薄っぺらくは無いはずです。
どんなことにおいても、「基本」が大切なのです。
どんなことにおいても、「基本」を忘れたときに「失敗」が起こるのです。
どんなことにおいても、「基本」を積み上げた上でなければ、本当の「成功」は得られないのです。
インドの「瞑想少年」の話題がありましたが、「奇跡を求める心」が生んだ産物でしょう。「瞑想少年」にしても、「宝くじ」にしても、人間、奇跡に頼るようになったら、おしまいです。
断言します。
PS^3:
本年中のエッセイは、本日で終わりです。
(物足りなかった方は、過去のエッセイを年末年始の休みの間にでも読んでみてください。各エッセイのバナーをクリックすれば、そのエッセイ・インデックスが表示されます。)
僕の年末年始は、人から頼まれた原稿、雑誌から依頼された原稿、春には出版予定の書籍の原稿、1月セミナーや講演の原稿と、つまり「しこしこ」原稿ばかりです。
楽しみながら書きます。です。はい。
PS^4:
次回の「実践・企業価値評価シリーズ」合宿セミナーは、1月28日~29日です。
まだ、数席、余裕があります。
あなたにとって、2006年がすばらしい年になるように、年始から「勉強」しましょう!
詳しくは、左フレーム「実践・企業価値評価シリーズ」からどうぞ!