自称脳科学に詳しいと言う人に食事に誘われ、評判の良いフレンチビストロに行った。店内は、落ち着いた照明に素朴な木のテーブル、さりげなく飾られた季節の花がアクセントになっている。いかにも「おいしいものが食べられます」といった雰囲気の、こじんまりしたお店だった。
席に着くと彼が「脳の働きって面白いよね」と切り出し、何やら大脳皮質だの前頭葉だのと語り始める。まあ、知識を披露したいのだろうし、退屈ではあったけど黙って聞いた。そうこうしているうちに、パンがサーブされる。小さなバスケットに入ったバゲットだ。店員さんが「こちらはオリーブオイルと岩塩でお召し上がりください」と言うので、言われるがまま試すと、これが本当に美味しい。シンプルなのに、素材の力強い旨みが口いっぱいに広がる。――こういう「飾らない美味しさ」に出会えると、少し幸せな気分になる。
「すみませーん、バケットおかわりください!」
私は一瞬、聞き間違いかと思った。でも、彼はまるで当然のように「バケット、うまいよねー」と言いながらパンをちぎっている。確信犯だった。
バゲットとバケットの違いも知らずに脳科学を語るって、どうなんだろう。あの堂々とした口ぶりで「前頭葉の働きはさー」とか言ってたのかと思うと、なんだか急に全部が嘘くさく思えてきた。私がパンをもう一切れ取る手を止めていると、彼は「いやー、やっぱバケットは正義だよね」と満足げに頷いている。だからそれ、バゲットだってば。
その後もサラダ、メイン料理と続き、料理は確かに美味しかった。でも、私の心の中ではずっと「バケット」の二文字が引っかかっていた。デザートに大好きなカシスのソルベがあったけれど、今日はどうしても頼む気になれなかった。
店を出ると、彼が「次はワインバーとかどう?」なんて言いながら、さりげなく手を繋ごうとしてきた。でも、私は何も気づいていないふりをして、歩幅を半歩広げて最寄り駅に向かった。別れ際に彼は「今日は楽しかったね!」と言ったけれど、私はにっこり笑って「うん、じゃあね」とだけ返して、振り向かずに電車に乗った。