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田中舘愛橘 - Wikipedia
安政3年、陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と呑香稲荷神社の娘で... 安政3年、陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と呑香稲荷神社の娘である母・喜勢(きせ、旧姓・小保内)の長男として生まれた[1][3][4]。田中舘家は父祖から藩の兵法師範を勤めていた家系で、愛橘の曽祖母は「南部の赤穂浪士」ともてはやされた相馬大作(下斗米秀之進)の実姉にあたる[3]。文久2年(1862年)、6歳の時に母・喜勢が病没、愛橘は泣きしきって過ごした[3][5]。9歳の頃、下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学んだ。この頃の愛橘はわんぱくなガキ大将であったという[1][6]。明治維新で両校が廃止されると、明治2年(1869年)に心ならずも盛岡に移り、南部藩の藩校作人館の修文所に通い和漢の書を修めた。修文所の同窓には原敬と佐藤昌介が、後輩には新渡戸稲造がいた[1][2][3
2020/12/29 リンク